第一次大戦前
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北急行は1896年5月9日にオーステンデおよびパリとサンクトペテルブルクの間で週1往復の運行を始めた。標準軌の客車が直通するのはパリおよびオーステンデとアイトクーネンまたはヴェルジュボロヴォの間である。サンクトペテルブルク行きはヴェルジュボロヴォで、パリ・オーステンデ行きはアイトクーネンで客車を乗り換えた。パリ発着の編成とオーステンデ発着の編成はリエージュで合流した。また、カレー - ブリュッセル間にはサロン車(食堂車兼用の座席車)1両と荷物車からなる列車が運転され、ブリュッセル北駅でオーステンデ発着の北急行と接続した。オーステンデとカレーではそれぞれイギリス・ドーバーとの連絡船に接続していた。なおカレー発着は1902年に廃止されている。 翌1897年1月1日からはオーステンデ発着編成は週2往復の運転となった。さらに5月1日にはオーステンデ - ベルリン間は毎日運転となる。ただしパリ発着編成はこの時点では週1往復のままであった。11月3日からはパリ - サンクトペテルブルク間およびカレー - ブリュッセル間も週2往復となった。また1897年から1898年にかけての冬季には、パリ発着編成の一部の寝台車が南フランスのニースまで直通した。翌年以降はサンクトペテルブルク・ウィーン・ニース・カンヌ急行の運転開始に伴い、このような直通は行われていない。1899年6月1日からはパリ - ベルリン間も毎日運転となった。 そして同年11月4日からは、オーステンデ・パリからベルリン経由ワルシャワまで週1往復延長されるようになった。ワルシャワは当時ロシア帝国内のポーランド立憲王国に属しており、鉄道はワルシャワ以西が標準軌、以東が広軌であった。1909年6月1日からは、ワルシャワ - モスクワ間に北急行と接続する「ワルシャワ・モスクワ・北急行」が運転され、モスクワでは極東へ向かうシベリア横断急行と連絡した。ただし、標準軌の北急行と広軌のワルシャワ・モスクワ・北急行はワルシャワでの発着駅が異なり、乗り換えには市内移動を必要とした。この頃のシベリア横断急行は途中イルクーツクでの乗り換えが必要だったが、1914年にはモスクワからウラジオストク、長春への直通が実現した。さらにワルシャワから極東までの直通も計画されたが、実現する前に第一次世界大戦が勃発してしまった。 1914年の第一次世界大戦勃発の直前、各国での総動員のため、北急行はその他の国際豪華列車とともに運休となった。
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第一次大戦前(車両・編成)
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「北急行」の記事における「第一次大戦前(車両・編成)」の解説
1896年の運転開始時点では、北急行の標準軌区間に充てられたのは同年製造の寝台車4両(457号車 - 460号車、オーステンデ発着とパリ発着が各2両)と、1892年製の元ペニンスラ・オリエント急行(カレー - ブリンディシ)の食堂車292号車(オーステンデ発着)である。また、1889年から1893年までカレー - パリ間の「クラブ列車 (Club train)」に用いられていたサロン車245号車がカレー - ブリュッセル間の接続列車に用いられ、やはり元クラブ列車の食堂車242号車がパリ - ジュモン(フランス語版)(ベルギー国境)間で連結された。このほか、1889年から1892年にかけて製造された荷物車もあった。 その後、数次に渡って北急行用の車両の増備が行われた。1909年時点で北急行に充てられた客車は以下の通りである。 車両標準軌車両広軌車両オーステンデ発着パリ発着サンクトペテルブルク系統モスクワ系統寝台車 22両 5両 4両 食堂車 8両 3両 2両 2両 荷物・郵便車 6両 荷物車 8両 2両 3両 荷物車(隔離車) 2両 1909年から14年までの北急行の標準軌区間での編成は以下のとおり。 オーステンデ発車両両数運転区間荷物車(隔離車) 1 オーステンデ - リエージュ 寝台車 2 オーステンデ - ベルリン/ヴィルバリス/ワルシャワ 食堂車 1 オーステンデ - ベルリン/ヴィルバリス/ワルシャワ 荷物車 1 オーステンデ - ベルリン/ヴィルバリス/ワルシャワ パリ発車両両数運転区間荷物車 1 パリ - ベルリン/ヴィルバリス/ワルシャワ 寝台車 1または2 パリ - ベルリン/ヴィルバリス/ワルシャワ (食堂車) 1 ジュモン - リエージュ
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第一次大戦前(経由地・停車駅)
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「北急行」の記事における「第一次大戦前(経由地・停車駅)」の解説
特記以外は1909年時点のワゴン・リ社の時刻表(Mühl 1991, p. 103)による。 国経由地備考パリ - リエージュ (- サンクトペテルブルク/ワルシャワ)フランスパリ 北駅に停車。南急行と連絡。1897年 - 98年冬にはニースまで直通。 サン=カンタン ジュモン(フランス語版) 国境駅 ベルギーエルクリンヌ(フランス語版) 国境駅 シャルルロワ ナミュール ユイ リエージュ 以下、オーステンデ発着の編成と合流。 カレー - ブリュッセルフランスカレー イギリス・ドーバーとの連絡船に接続。 リール ベルギーブリュッセル 北駅に停車。オーステンデ発着の列車に乗り換え。 オーステンデ - サンクトペテルブルクベルギーオーステンデ イギリス・ドーバーとの連絡船に接続。 ブリュッセル 北駅に停車 ルーヴェン アンス リエージュ パリ発着編成と合流。 ヴェルヴィエ 東駅に停車 ウェルカンラト(フランス語版) 国境駅 ドイツ帝国ヘルベスタル(ドイツ語版) 国境駅。現ベルギー領ロンツェン(ドイツ語版)の一部。 アーヘン デューレンDüren ケルン デュッセルドルフ デュースブルク エッセン 1899年まではオーバーハウゼン経由。 ドルトムント ハム ビーレフェルト ハノーファー シュテンダールStendal ベルリン ベルリン市街鉄道経由。動物園駅、フリードリヒ通り駅、シュレージエン駅(現東駅)に停車。 ランツベルク 現ポーランド領ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ シュナイデミュール 現ポーランド領ピワ コニッツ 現ポーランド領ホイニツェ(ポーランド語版) ディルシャウ 現ポーランド領トチェフ エルビング 現ポーランド領エルブロンク ケーニヒスベルク 現ロシア領カリーニングラード インステルブルク 現ロシア領チェルニャホフスク アイトクーネン 国境駅。オーステンデ、パリ行きは標準軌客車に乗り換え。現ロシア領チェルニシェフスコエ(ロシア語版) ロシア帝国ヴェルジュボロヴォ 国境駅。サンクトペテルブルク行きは広軌車両に乗り換え。現リトアニア・ヴィルバリス、ドイツ語表記ではヴィルバレン (Wirballen)。駅の所在地は正確にはキーバルタイ(リトアニア語版)だが、近くの都市の名をとってこの駅名で呼ばれた。 カウナス 現リトアニア領 ヴィリニュス 現リトアニア領 Švenčionėliai 現リトアニア領 ドヴィンスク 現ラトビア領ダウガフピルス レーゼクネ 現ラトビア領 カルサヴァ(ラトビア語版) 現ラトビア領 オストロフ プスコフ ルーガ ガッチナ サンクトペテルブルク (オーステンデ/パリ -) ベルリン - ワルシャワドイツ帝国ベルリン フランクフルト・アン・デア・オーダー ベンチェン 現ポーランド領ズボンシン(ポーランド語版) ポーゼン 現ポーランド領ポズナン トルン 現ポーランド領 (ポーランド立憲王国)アレクサンドルフ 国境駅。現アレクサンドルフ・クヤフスキ(ポーランド語版) クトノ(ポーランド語版) スキェルニェヴィツェ ワルシャワ ウィーン駅(ポーランド語版)(ワルシャワ・ウィーン鉄道の駅)に停車。 ワルシャワ - モスクワ(ワルシャワ・モスクワ・北急行)(ポーランド立憲王国)ワルシャワ ブレスト駅(現東駅)に停車。ウィーン駅発着の標準軌列車との乗り継ぎには市内移動が必要であった。 ロシア帝国ブレスト 現ベラルーシ バラーナヴィチ 現ベラルーシ ミンスク 現ベラルーシ ヴォルシャ 現ベラルーシ スモレンスク ヴャジマ モスクワ ブレスツキー駅(現ベラルースキー駅)、クールスキー駅に停車。クールスキー駅でシベリア横断急行に接続。
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第一次大戦前
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「オーステンデ・ウィーン急行」の記事における「第一次大戦前」の解説
ベルギーのオーステンデはイギリスのドーバーと船で結ばれており、ヨーロッパ大陸の鉄道網とイギリスとの接続点の一つとなっていた。国際寝台車会社(ワゴン・リ社)は1872年の創業時からオーステンデ発着の寝台車を運行していた。 1894年6月1日、ワゴン・リ社はオーステンデとオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンをブリュッセル、ケルン、フランクフルト・アム・マイン、ニュルンベルク、パッサウなどを経由して結ぶオーステンデ・ウィーン急行の運行を始めた。従来イギリスからオーストリアや南東ヨーロッパ方面へは、ドーバーからカレーを経由し、パリでオリエント急行に乗り継ぐ必要があった。オーステンデ経由はこれより短距離で所要時間も短かった。ロンドン - ウィーン間は1泊2日の行程となり、朝ロンドンを起てば翌日の夕方にウィーンに着くことができた。
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