シベリア横断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:43 UTC 版)
1878年(明治11年)7月26日、サンクトペテルブルクを出発し帰国の途に向かう。榎本は当時日本に広まっていた「恐露病」を克服するため、ロシアの実情を知ることを目的にシベリアを横断した。モスクワを経てニジニ・ノヴゴロドまで鉄道で行った後、船と馬車を乗り継ぎ、9月29日にウラジオストックに到着。そこで黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗船し、10月4日小樽に帰着。札幌滞在の後、10月21日に帰京した。このとき、山内堤雲とともに小樽の手宮洞窟にある古代文字を調査し報告している。
※この「シベリア横断」の解説は、「榎本武揚」の解説の一部です。
「シベリア横断」を含む「榎本武揚」の記事については、「榎本武揚」の概要を参照ください。
シベリア横断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:21 UTC 版)
玉井は下関から釜山を経由し、ロシアのウラジオストクへ向かった。直接ドイツに向かわずウラジオストクに向かったのは、名目上は日露貿易の勉強のためということであったが、実際は、ドイツまで直接行く費用がなかったため、道中で資金を稼ぎながらシベリアを横断しようと考えたためであった。なお、文献によってはこれを「密入国」と書いているものもあるが、玉井のパスポートが現存しており、これは誤りである。ウラジオストクでは、冤罪で投獄されるというアクシデントに遭ったことや、旅費を稼ぐために働いていたこともあって約6カ月滞在している。 1893年(明治26年)5月31日、旅費がある程度貯まったためウラジオストクを出発した玉井は、ハバロフスクからアムール川を汽船で遡上してブラゴヴェシチェンスクに向かった。同地で3週間働いて旅費を稼いだ後、スレチェンスク-チタ-ヴェルフネウジンスク(現ウラン・ウデ)-イルクーツクと西進する。なおこの時、陸路の多くでは茶を運ぶキャラバンに同行していた(当時のロシアはイギリスに次ぐ世界第2位の茶輸入大国であり、その大部分は清からシベリアを経由して輸送されていた)。 イルクーツクに到着した玉井は、ここで旅の続行の危機に陥る。ウラジオストクで稼いだ資金が底を突いた上、慣れない食事による下痢や悪路を走る馬車に長時間乗っていたことなどが原因で重度の痔を患ってしまっており、労働はおろか眠ることさえできないほどの痛みに苦しめられることになっていたのである。しかしここで、神学校で学ぶため単身ロシアに渡っていた椎名保之助というかつての東京速成学館の生徒と再会。椎名の協力を得て、3カ月半の滞在の後にイルクーツクを出発することができた。 イルクーツクからトムスクまでは、また茶のキャラバンに同行したが、これは厳寒期だったため過酷な道のりとなった。気温は氷点下40℃前後の日が多く、着ている毛皮の外套が凍りついて板のようになることさえあった。また隊はあくまでも茶を早く輸送することが目的であり、本来の客ではない玉井は隊に置いていかれることもしばしばで、極寒の中を走って隊を追いかけざるを得ないときもあった。また、道中で盗賊に襲われたということも記録されている。 このような30日間の道のりの末に辿り着いたトムスクでは、トムスク大学や、現地の新聞『シベリア報知』の人間から支援を受けることができた。このため、以降は鉄道などを使って順調に進むことができ、1894年(明治27年)2月26日、当初の目的地であったベルリンに到着する。日本を発ってから467日目のことであった。
※この「シベリア横断」の解説は、「玉井喜作」の解説の一部です。
「シベリア横断」を含む「玉井喜作」の記事については、「玉井喜作」の概要を参照ください。
「シベリア横断」の例文・使い方・用例・文例
- シベリア横断の
- シベリア横断鉄道
- シベリア横断のページへのリンク