シベリア抑留までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:20 UTC 版)
旧制東京外国語学校(後の東京外国語大学)でロシア語を学んだが、在学中に社会主義に没頭して左翼運動に参加していたことから、1928年(昭和3年)の三・一五事件の際に逮捕され退学処分となった。そのまま復学もしていないため、卒業はしていない。1933年(昭和8年)に結婚し、4人の子供をもうけた。 1936年(昭和11年)に満州にわたり、南満州鉄道内の調査機関である大連市の満鉄調査部に入社した。入社時の成績は、ロシア人の試験官が舌を巻くほどであった。ロシア語の語学をはじめとする実力を発揮し、『北東アジアの諸民族』(中央公論社)などソ連の社会、経済、軍事などに関する書を執筆して高い評価を受けた。 第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)、召集令状により二等兵として入営した。ロシア語に長けることから1945年(昭和20年)にハルビン特務機関に配属された。 第二次世界大戦での日本の降伏後にソ連に抑留され、スヴェルドロフスク収容所へ入れられた。満鉄調査部での北方調査やハルビン特務機関で山本はソ連の新聞や雑誌の翻訳を行っていたが、これらの活動がソ連に対するスパイ行為と見なされ、戦犯としてソ連の国内法(刑法第58条第6項)により重労働25年の刑を下された。山本は軍人としては一兵卒であったが、この刑期は軍の司令官や大将にも匹敵する。これほどの重い刑となったのは、ソ連のスパイとなることを強要された山本がそれを断ったため、または戦争の影響で正式な裁判が行われなかったため、との説もある。以後、冬には零下数十度となる厳しい気候、粗末な食事をはじめとする劣悪な環境のもと、長年にわたって重労働を強いられることとなった。
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