シベリア流刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:14 UTC 版)
「セルゲイ・コロリョフ」の記事における「シベリア流刑」の解説
1933年にはソビエト連邦で最初の液体燃料ロケットの打上げに成功し、新設されたジェット推力研究所の所長になった。1938年7月22日、新ロケットの開発に難航する中、他の研究所メンバーと共にソ連内務人民委員部 (NKVD) に逮捕された。先に逮捕されていたヴァレンティン・グルシュコの告発による冤罪である。 容疑はテロ組織への関与と研究遅延・怠慢による国家資源浪費であった。尋問の際には顎をひどく骨折するほどの暴行を受け、自白を強要された。10年の刑を受けてシベリアのコルィマ鉱山にある強制収容所に送られた。過酷な環境の中で壊血病を患い、症状はひどく悪化したため全ての歯は抜け落ち、心臓病に苦しんだ。 コロリョフはその後、師であるツポレフの嘆願などにより8年へ減刑され、モスクワにある強制収容所内の特別研究所に移され、かつての同僚でシベリア流刑のきっかけとなったグルシュコと共に再び戦闘機・爆撃機開発に従事した。コロリョフの罪が免除されたのは1944年だった。 後にコロリョフは、自分を収容所に送った元凶がグルシュコの虚偽の告発と知り、グルシュコもまた、常にコロリョフの陰に置かれる立場が気に入らず、死ぬまで相互不信が続く事になった。ソ連首相フルシチョフは2人の不仲を非常に気にかけ、コロリョフとグルシュコを夫人同伴で自宅に招いて仲直りさせようとしたが、成功しなかったという。フルシチョフはまた、コロリョフの人間性をあらわすエピソードとして以下の話を回想記に記している。コロリョフは、自分が当初反対した酸燃料(自己着火性過酸化剤燃料)を用いたミサイルのプロジェクトがミハイル・ヤンゲリの主導で成功しはじめたのを見ると、そのプロジェクトを自分に回してくれるようにとフルシチョフに直訴した。フルシチョフは、「そんなことをしたらヤンゲリに対する侮辱になる」とコロリョフをたしなめた上で、「天才にも弱点があるものだ」と回想記に記している。
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