じゅうじか‐の‐おか〔ジフジカ‐をか〕【十字架の丘】
十字架の丘
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十字架の丘(リトアニア語: Kryžių kalnas IPA: [ˈkʲrʲǐːʒʲuː ˈkä̂ln̪ɐs̪] 「クリージュ・カァルナス」)は、リトアニア北部、シャウレイの北12kmに位置する巡礼地。リトアニアの観光名所となっている。2001年に『リトアニアの十字架の手工芸とその象徴』のひとつとして無形文化遺産の「代表一覧表」に記載されている。
その発祥は分かっていないが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシア帝国に対する11月蜂起の後であると考えられている[1][2]。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになった。十字架の正確な数は分かっていないが、約50,000であろうと推測されている[3]。
歴史


かつてリトアニアのカトリック信仰は脅威にさらされたこともあったが、数世紀を経て、この丘はカトリック信仰の長い歴史を物語るようになっていった。1795年の第3次ポーランド分割で、リトアニアはロシア帝国の領土下に置かれることとなった。ポーランド人とリトアニア人はロシアに対抗して蜂起を起こした(1831年の11月蜂起、および1863年の1月蜂起)が、いずれも失敗に終わる。これら2つの蜂起はこの十字架の丘の始まりに関係している。反乱兵の家族が、彼らの遺体のかわりに十字架を丘に建てたのである[1] 。
1918年、リトアニアは独立を回復。独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために祈る場所となった。
1900 | 130 |
1902 | 155 |
1922 | 50 |
1938 | 400 以上 |
1961 | 5,000 が破壊される |
1975 | 1,200 が破壊される |
1990 | 約 55,000 |
リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を持っていた。丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や遺産への忠誠心を示した。それは、非暴力による抵抗を表していた。にもかかわらず、ソ連は3度にわたりブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとした[5]。ムーシャ川の支流、クルヴェ川の近くにダムを建設するためにこの丘が水の中に沈んでしまう、という噂もあった[3] 。
1993年9月7日、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、そして犠牲者のための場所であると述べた。2000年、フランシスコ会の修道院がこの丘の近くに完成した。内部の装飾は、フランシスコの身体に聖痕が現れたとされるトスカーナのラ・ヴェルナのものと関連している[5]。この丘は未だいずれの管轄にも属していない。そのため、自由に出入りし十字架を建てることができる[6]。
脚注
- ^ a b Semaška, Algimantas (2006). Kelionių vadovas po Lietuvą: 1000 lankytinų vietovių norintiems geriau pažinti gimtąjį kraštą (4th ed. ed.). Vilnius: Algimantas. pp. 339. ISBN 9986-509-90-4
- ^ “シャウレイ”. DTACリトアニア観光情報局. 2018年9月26日閲覧。
- ^ a b “Kryžių kalnas”. Šiauliai bishop. 2007年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月6日閲覧。
- ^ “Kryžių skaičius”. Lithuanian Millennium of Cultural Heritage Virtual Tour. 2007年5月6日閲覧。
- ^ a b Jankevičiūtė, Giedrė (2006). Lietuva. Vadovas. R. Paknys press. pp. 256-257. ISBN 9986-830-97-4
- ^ “Hill of Crosses”. In Your Pocket City Guides. 2007年6月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年5月6日閲覧。
関連項目
外部リンク
十字架の丘
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カトリックの司祭らは共産政権下のリトアニアにおいて抵抗運動を主導、シャウレイ近郊にある十字架の丘はこうした反共産主義運動の聖地であった。 詳細は「十字架の丘」を参照 この丘に初めて十字架が立てられたのは14世紀頃ともいわれるが、確実な記録に残っているのは1847年のことである。この時に近くの住民が重病から回復したことを機に十字架を立てたといわれ、その後その話は広まっていき3年後には20の十字架が立てられるようになった。 現在この丘には数千のラテン十字が立てられているが、ラテン十字の使用はかつてリトアニアがロシア帝国によって支配されていた時代に禁止されていた。1863年に帝政ロシアの圧政に対して蜂起(1月蜂起)が起こされると多くの犠牲者が出たが、家庭などでラテン十字を飾ることは禁じられていたために人々はこっそりとこの丘に十字架を持ち寄り蜂起の犠牲者の追悼を祈った。 ソ連下でもこうした宗教的象徴の使用は禁じられていた。1961年と1975年にはソ連当局によって丘に立てられた約5千の十字架がトラクターで撤去されたが、しかし翌日になると再び十字架が立てられていた。 このように十字架の丘は宗教弾圧に対する抵抗運動の象徴となる土地であった。なお、現在はラテン十字のほかにもギリシャ十字や八端十字架、ケルト十字など、約10万の十字架が立てられている。中にはリトアニア人が元々信仰していた多神教信仰の要素が取り入れられた十字架もある(詳細は「多神教」の節を参照)。また1993年9月7日には教皇のヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れている。
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