ロシア領カリーニングラード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 01:27 UTC 版)
「ケーニヒスベルク (プロイセン)」の記事における「ロシア領カリーニングラード」の解説
詳細は「カリーニングラード」を参照 「カリーニングラード州」も参照 1945年の第二次世界大戦終結後、ポツダム会議での連合国の同意を得たポツダム協定により、和平調停において領土問題が最終的に解決するまでケーニヒスベルクは、ソビエト連邦を構成するロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に併合された(第5項 ケーニヒスベルクと近隣地域)。 会談では、ダンツィヒ湾東岸の地点から東に、ブラウンスベルク・ゴルダプの北を、リトアニア・ポーランド共和国・東プロイセンの国境合流地点に及ぶ、バルト海に隣接するソビエト社会主義共和国連邦の西部戦線の領域について、和平調停では領土問題の最終決定を保留するというソビエト連邦政府による提案を検討した。会談では、原則として、ケーニヒスベルクとその隣接地域のソビエト連邦への最終的な移管に関して、上記のように、実際の国境を専門家による検討の対象とする、というソビエト政府の提案に合意した。アメリカ合衆国大統領とイギリス首相は、来るべき和平調停において、本会談における本提案を支持することを表明した。 赤軍によるケーニヒスベルクの占領後、街はロシア風に「キョーニクスベルク」Кёнигсберг (Kyonigsberg) と呼ばれていた。これを「バルト海の町」を意味する「バルチースク」に改称することが当初は検討されたが、オールド・ボリシェヴィキの1人でソ連最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンの死後、1946年7月4日に、カリーニングラードと改称された。その代わり「バルチースク」は、近くの港町ピラウの改称に用いられた。ドイツ人住民は占領された西方ドイツか、シベリアの強制収容所に追放され、彼らの半数は飢餓や病気で死亡した。 民族浄化の後、カリーニングラードの旧市民は完全にソビエト市民に入れ替えられた。生活は劇的に変わり、街にはカリーニングラードという新しい名がつけられ、日常言語としてのドイツ語はロシア語に取って代わられた。破壊を免れたいくつかの建物が残った旧アルトシュタットは再建され、カリーニングラードは工業化と現代化が行われた。ソ連の西端地域の1つとして、カリーニングラード州は冷戦期に戦略的に重要な地域となった。ソ連のバルチック艦隊の本部が置かれ、その戦略的重要性のためカリーニングラードは閉鎖都市として外国人訪問者を締め出した。[要出典]
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