ロシア領アメリカ
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- ロシア領アメリカ
- Русская Америка
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← 1799年 - 1867年 →
(州の旗) (ロシア帝国の国章) -
国歌: Коль славенъ нашъ Господь в Сіонҍ
シオンにおける主の栄光は(1799年 - 1816年)
Молитва русских
ロシア人の祈り(1816年 - 1833年)
Бо́же, Царя́ храни́!
神よ、ツァーリを護り給え!(1833年 - 1867年)
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1860年のロシア領アメリカ -
公用語 ロシア語、ハイダ語、ツィムシアン語、エスキモー・アレウト語、チヌーク・ジャーゴン、ナ・デネ語族 宗教 ロシア正教会 首都 ノヴォアルハンゲリスク 現在 カナダ
アメリカ
ロシア領アメリカ(ロシアりょうアメリカ、ロシア語: Русская Америка, Russkaya Amerika)は、ロシア帝国が1733年から1867年まで北米地域に領有していた領土を指す。
首府はノヴォ・アルハンゲリスク(現在のアメリカ合衆国アラスカ州シトカ)に置かれていた。現在は主にアメリカ合衆国アラスカ州となっている地域とカリフォルニア州となる地区のフォート・ロスとハワイ州となる地区のエリザベス要塞、アレクサンダー要塞、バークレイ・デ・トリー要塞(Fort Barclay-de-Tolly)の3つの砦に及んでいる。
ロシア帝国が公式に植民地として成立させたのは、独占権を持つ露米会社の設立を宣言するとともにロシア正教会に一部土地の所有権を認めた1799年勅令だった。19世紀にはそれらの所有権の多くは放棄されたが、1867年にロシア帝国は残りの所有権をアメリカ合衆国に720万USドル(現在の価値で6億4,714万USドル)にて売却(アラスカ購入)した。
ロシア人によるアラスカ「発見」
ロシアにおいてアラスカに初めて到達したヨーロッパ人の記録が残っているのは、セミョン・デジニョフが1648年にシベリア北東部のコリマ川河口から出帆し北極海を航海、ユーラシア大陸の東端を回航しアナディリ川まで辿り着いた記録である。一部の船が船団を離れアラスカに上陸したと言う伝承もあるが、確証はない。デジニョフの発見は中央政府に報告されておらず、シベリアは北アメリカ大陸と地続きなのかそうでないかは、この時点でまだ解明されていない疑問であった[1]。
1725年、ロシア皇帝ピョートル1世は再度探索を指示した。1741年6月、第2次カムチャツカ遠征(1733-1743)の一部としてヴィトゥス・ベーリング(聖ピョートル号)とアレクセイ・チリコフ(聖パーヴェル号)がカムチャツカ半島のペトロパブロフスクから出帆した。それぞれすぐに2隊に分かれたが、そのまま東方で航海し続けた[2] 。7月15日にチリコフは、おそらく現在のアラスカ南東端のプリンスオブウェールズ島に当たると思われる土地を「発見」[3]。船員をロングボートで着岸させ、北アメリカ北西海岸に初めて上陸したヨーロッパ人となった。 翌7月16日にはベーリングと聖ピョートル号船員はアラスカのセイントイライアス山を見つけ、その後進路を西方のロシア方面に戻した。チリコフと聖パーヴェル号も10月にはアラスカ「発見」のニュースをロシアへ持ち帰った。
11月にベーリングは現在のベーリング島で座礁。聖ピョートル号も強風で破壊され遭難、そのままそこで病死した。厳しい冬季を乗り越えた生存者は船の破片から造船し、1742年8月に島を出てカムチャツカに生還したため彼らのアラスカ「発見」のニュースが伝わった。彼らが持ち帰った高品質のラッコ毛皮の存在が、ロシアのアラスカへの入植の意欲を高めた。
歴史
- 1741年、デンマーク人のヴィトゥス・ベーリングがロシア皇帝の要求を受け、初めてアメリカ大陸に上陸した。
- 1784年、ロシアはカムチャツカ半島からアリューシャン列島に沿ってアメリカ大陸へ進出し、コディアック島に拠点を置いた。
- 1799年、ロシアはロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言した。同時にシトカへ拠点を移し、統治を露米会社に任せた。
- 1800年、ロシアが金本位制を採用。ロシア・ルーブルを1/3切り下げ[4]。
- 1821年、正式にアラスカを領有。
- 1822年、ロシアがロスチャイルドから600万ポンドの借款を受ける[5]。
- 1824年、アメリカ合衆国と国境を画定。ロシアは北カリフォルニアと南北両オレゴンから撤退した。
- 1861年、ロシア政府が露米会社から行政権を回収した。
- 1867年、ロシアはクリミア戦争に敗れてから財政的に困窮した上、イギリスがアラスカに対する領土的野心を持っていたことから、同年10月18日、720万ドルでアラスカをアメリカへ売却することとなった。
関連項目
脚注
注釈
- ^ 露米会社は1799年に設立され、ロシア帝国の代わりにロシア領アメリカを統治した。
出典
- ^ Robert Bruce Campbell (2007). In Darkest Alaska: Travels and Empire Along the Inside Passage. p. 1. ISBN 978-0812240214
- ^ Lydia Black, Russians in Alaska, 1732–1867 (2004).
- ^ “Russia's Great Voyages”. 2003年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月4日閲覧。
- ^ 新ルーブルの単位あたり金含有量は0.774234 グラムに法定された。
- ^ W. L. Blackwell, The Beginnings of Russian Industrialization 1800–1860, 1968, Princeton University Press, p.244.
ロシア領アラスカ
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「ノーウ・トライン」の「ケコール」(丘)の上には、ロシア軍が自軍の砦(krepost)を建設し、トリンギット族の攻撃に備えて、高い木製の柵壁と3基の望楼および32門の大砲を備えた。1805年の夏までに、砦の中には8棟の建物が建てられ、作業場、宿舎および知事の宿舎に宛てられた。キクスアディは毎年インディアン川河口近くの「ヘリング・ロック」に遠征を行う他は、1821年まで拡大する植民地との問題を避けていた。ロシアは先住民族の狩りの腕前から利益を得ることを期待し、開拓地に対する散発的な襲撃を終わらせたいと考え、トリンギット族にシトカに戻るよう要請した。シトカは1808年にロシア領アメリカの新しい首都に指定されていた。 戻ることを選んだトリンギット族は「基地の丘」のしっかりと守られた防御柵の直ぐ下の集落の一部(この地域は1965年ころまで「ランチェ」と呼ばれた)に住むことを許された。ロシア軍の砲兵隊は常に訓練されて、「シスキノーウ」で敗北したことを思い出させた。キクスアディは入植者に栽培法を教えられたトウモロコシを含み食料やラッコの生皮をロシア人に供給し、入植者はトリンギット族にロシアの文化やロシア正教会の様々な面を教えた。トリンギット族による反攻はときたま起こり、1855年の重大な武装蜂起の後、1858年までに終息した。ロシア領アメリカが1867年にアメリカ合衆国に売却され、ロシアの財産は全て、アメリカ会社とともに清算された。この領有権移行に伴い、土地のトリンギット族の多くの長老はロシアが売却できる権利があるのは「キャッスル・ヒル」だけだと主張した。トリンギット族の主張は20世紀後半まで顧みられることがなく、1971年のアラスカ先住民権益措置法によって決着した。 1880年の国勢調査によれば、キクスアディの伝統的な夏の漁場であるインディアン川近くに住んでいたトリンギット族は43名であった。
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