ロシア領アラスカとは? わかりやすく解説

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ロシア領アメリカ

(ロシア領アラスカ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 03:10 UTC 版)

ロシア領アメリカ
Русская Америка (ロシア語)
1799年 - 1867年
(州の旗) ロシア帝国の国章
国歌: Коль славенъ нашъ Господь в Сіонҍ(ロシア語)
シオンにおける主の栄光は(1799年 - 1816年)

Молитва русских(ロシア語)
ロシア人の祈り(1816年 - 1833年)

Бо́же, Царя́ храни́!(ロシア語)
神よ、ツァーリを護り給え!(1833年 - 1867年)

1860年のロシア領アメリカ
公用語 ロシア語ハイダ語ツィムシアン語エスキモー・アレウト語チヌーク・ジャーゴンナ・デネ語族
宗教 ロシア正教会
首都 ノヴォアルハンゲリスク
ロシア皇帝
1784年 - 1784年 エカテリーナ2世
1799年 - 1801年 パーヴェル1世
1801年 - 1825年 アレクサンドル1世
1825年 - 1855年 ニコライ1世
1855年 - 1867年 アレクサンドル2世
総督
1799年 - 1818年 アレクサンドル・バラノフ
1863年 - 1867年 ドミートリー・ペトローヴィチ・マクスートフ英語版
変遷
露米会社設立[注釈 1] 1799年7月8日
アラスカ購入 1867年10月18日
現在  カナダ
 アメリカ

ロシア領アメリカ(ロシアりょうアメリカ、ロシア語: Русская Америка, Russkaya Amerika)は、ロシア帝国1733年から1867年まで北米地域に領有していた領土を指す。

首府はノヴォ・アルハンゲリスク(現在のアメリカ合衆国アラスカ州シトカ)に置かれていた。現在は主にアメリカ合衆国アラスカ州となっている地域とカリフォルニア州となる地区のフォート・ロスハワイ州となる地区のエリザベス要塞アレクサンダー要塞英語版、バークレイ・デ・トリー要塞(Fort Barclay-de-Tolly)の3つのに及んでいる。

ロシア帝国が公式に植民地として成立させたのは、独占権を持つ露米会社の設立を宣言するとともにロシア正教会に一部土地の所有権を認めた1799年勅令英語版だった。19世紀にはそれらの所有権の多くは放棄されたが、1867年にロシア帝国は残りの所有権をアメリカ合衆国に720万USドル(現在の価値で6億4,714万USドル)にて売却(アラスカ購入)した。

ロシア人によるアラスカ「発見」

ロシアにおいてアラスカに初めて到達したヨーロッパ人の記録が残っているのは、セミョン・デジニョフが1648年にシベリア北東部のコリマ川河口から出帆し北極海を航海、ユーラシア大陸の東端を回航しアナディリ川まで辿り着いた記録である。一部の船が船団を離れアラスカに上陸したと言う伝承もあるが、確証はない。デジニョフの発見は中央政府に報告されておらず、シベリアは北アメリカ大陸と地続きなのかそうでないかは、この時点でまだ解明されていない疑問であった[1]

1725年、ロシア皇帝ピョートル1世は再度探索を指示した。1741年6月、第2次カムチャツカ遠征(1733-1743)の一部としてヴィトゥス・ベーリング(聖ピョートル号)とアレクセイ・チリコフ(聖パーヴェル号)がカムチャツカ半島ペトロパブロフスクから出帆した。それぞれすぐに2隊に分かれたが、そのまま東方で航海し続けた[2] 。7月15日にチリコフは、おそらく現在のアラスカ南東端のプリンスオブウェールズ島に当たると思われる土地を「発見」[3]。船員をロングボートで着岸させ、北アメリカ北西海岸に初めて上陸したヨーロッパ人となった。 翌7月16日にはベーリングと聖ピョートル号船員はアラスカのセイントイライアス山を見つけ、その後進路を西方のロシア方面に戻した。チリコフと聖パーヴェル号も10月にはアラスカ「発見」のニュースをロシアへ持ち帰った。

11月にベーリングは現在のベーリング島で座礁。聖ピョートル号も強風で破壊され遭難、そのままそこで病死した。厳しい冬季を乗り越えた生存者は船の破片から造船し、1742年8月に島を出てカムチャツカに生還したため彼らのアラスカ「発見」のニュースが伝わった。彼らが持ち帰った高品質のラッコ毛皮の存在が、ロシアのアラスカへの入植の意欲を高めた。

歴史

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 露米会社は1799年に設立され、ロシア帝国の代わりにロシア領アメリカを統治した。

出典

  1. ^ Robert Bruce Campbell (2007). In Darkest Alaska: Travels and Empire Along the Inside Passage. p. 1. ISBN 978-0812240214. https://books.google.com/books?id=GuNHnZfE3DcC&pg=PA1 
  2. ^ Lydia Black, Russians in Alaska, 1732–1867 (2004).
  3. ^ Russia's Great Voyages”. 2003年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月4日閲覧。
  4. ^ 新ルーブルの単位あたり金含有量は0.774234 グラムに法定された。
  5. ^ W. L. Blackwell, The Beginnings of Russian Industrialization 1800–1860, 1968, Princeton University Press, p.244.

ロシア領アラスカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 07:19 UTC 版)

シトカの戦い」の記事における「ロシア領アラスカ」の解説

「ノーウ・トライン」の「ケコール」(丘)の上には、ロシア軍自軍の砦(krepost)を建設しトリンギット族攻撃備えて、高い木製の柵壁と3基の望楼および32門の大砲備えた1805年の夏までに、砦の中には8棟の建物建てられ作業場宿舎および知事宿舎宛てられた。キクスアディは毎年インディアン河口近くの「ヘリング・ロック」に遠征を行う他は、1821年まで拡大する植民地との問題避けていた。ロシア先住民族狩り腕前から利益を得ることを期待し開拓地対す散発的な襲撃を終わらせたいと考えトリンギット族シトカに戻るよう要請したシトカ1808年ロシア領アメリカ新し首都指定されていた。 戻ることを選んだトリンギット族は「基地の丘」のしっかりと守られ防御柵の直ぐ下の集落一部(この地域1965年ころまで「ランチェ」と呼ばれた)に住むことを許された。ロシア軍砲兵隊は常に訓練されて、「シスキノーウ」で敗北したことを思い出させた。キクスアディは入植者栽培法教えられトウモロコシ含み食料ラッコ生皮ロシア人供給し入植者トリンギット族ロシアの文化ロシア正教会様々な面を教えたトリンギット族による反攻ときたま起こり1855年重大な武装蜂起の後、1858年までに終息した。ロシア領アメリカ1867年アメリカ合衆国売却されロシア財産全てアメリカ会社とともに清算された。この領有権移行に伴い土地トリンギット族多く長老ロシア売却できる権利があるのは「キャッスル・ヒル」だけだと主張したトリンギット族主張20世紀後半まで顧みられることがなく、1971年アラスカ先住民権益措置法によって決着した1880年国勢調査によれば、キクスアディの伝統的な夏の漁場であるインディアン近く住んでいたトリンギット族43であった

※この「ロシア領アラスカ」の解説は、「シトカの戦い」の解説の一部です。
「ロシア領アラスカ」を含む「シトカの戦い」の記事については、「シトカの戦い」の概要を参照ください。

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