アラスカ先住民権益措置法
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「アラスカの歴史」の記事における「アラスカ先住民権益措置法」の解説
大災害により被害を受けたアラスカの村々の多くは立ち直った。60年代、アラスカ先住民は国政や州の政治に参加するようになった。ヨーロッパ人が来てから200年以上経ったこの時、様々な来歴を持つ部族は一つになって自分達の土地が奪われてきたことに抗議の声を上げた。政府は重い腰を上げようとしなかったが、1968年アメリカの石油会社ARCO (Atlantic Richfield Company) が北極海沿岸のプルドー・ベイ (Prudhoe Bay) で石油を発見したことから風向きが変わり、土地所有の問題が議論に登るようになった。僻地での石油掘削と遠く離れた南部48州への輸送という困難を解決するためには、震災から復興したバルディーズまでパイプラインで石油を運ぶのが一番だと考えられた。バルディーズで石油を船積みし、海路で南に運ぼうというのである。この計画は承認されたが、パイプライン建設に関しては先住民たちの訴えが解決するまでは認められなかった。 オイルマネーが絡んでくるに及んで、先住民との和解が喫緊の課題となった。1971年、アラスカ先住民権益措置法 (Alaska Native Claims Settlement Act) が成立し、先住民は祖先の土地についての権利を主張するのをやめた。見返りとして、4400万エーカーに上る土地への立ち入りが認められ、9億6300万ドルが支払われた。土地と金は地域や村の組織に分配された。ある者は賢く基金を作ったが、そうしなかった者たちは土地があるばかりで金がない状態になった。この和解によって、先住民たちは侵略の賠償を得、アメリカ随一の資源埋蔵量を誇るアラスカに住む人々は石油で生計を立てることができるようになったのである。
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