アラスカや極東ロシアの伝統工芸への影響
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「ビリケン」の記事における「アラスカや極東ロシアの伝統工芸への影響」の解説
ビリケンの彫像はアラスカで伝統工芸品として扱われている。ただし、本来の民族伝統の彫刻品と比べて製作が簡単なため、腕に磨きをかけたい彫刻家にとってはそれほど魅力的な題材ではなく、観光客への販売目的が主であると言われている。アラスカのノームで著名なエスキモーの象牙彫刻家Angokwazhuk(通称ハッピー・ジャック)が、Kopturokという仇名の商人の提案のもと、1909年夏にオリジナルのビリケン人形を本土から買い入れ、象牙でコピー品を製作したのがその始まりである。その後数年間、ビリケンはアラスカを席巻し、流行歌が何曲も作られるほどの爆発的な売れ行きを見せたが、1912年ごろまでには売上が落ち着いて一旦忘れ去られた。しかし、それから徐々にアラスカに伝統工芸品として浸透していき、1966年にインディアン事務局が発行したパンフレットでは、その表紙にアラスカの伝統美術として、ビリケンの彫像を含むトリンギットのトーテムポールが採用されたほどである。 ビリケンはさらにアラスカからロシアのウエレンに住むユピックやチュクチなどの民族へと伝わり、そこから極東ロシアの幾つかの地域に広まった。V. V. Antropova (1953年)や E. P. Orlova (1964年)などの研究書が、極東ロシアの伝統美術として「peliken」を紹介している。チュクチ文学の父と言われるユーリー・ルィトヘウによる小説『アシカ』にも登場し、昔(第二次世界大戦より以前)チュクチの狩人はみなビリケンを持ち歩いていたが、それというのも「チュクチの神話」によれば、凶運が狩人に降り掛かってもビリケンが身代わりになってくれるからだと語られている。
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