アラスカとカリフォルニアとは? わかりやすく解説

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アラスカとカリフォルニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 01:44 UTC 版)

ニコライ・レザノフ」の記事における「アラスカとカリフォルニア」の解説

レザノフ1805年4月長崎去りカムチャツカ向かったカムチャツカには彼に対して極東とどまり露米会社営業地である北太平洋アラスカ視察して混乱立て直すよう、命令届いていた。この時期アラスカ海岸ではトリンギット族露米会社戦争続き1804年シトカの戦いでようやく事態収まったところであった。彼はアリューシャン列島伝いアラスカ本拠であるノヴォアルハンゲリスク(現在のアラスカ南部シトカ)に向かい毛皮乱獲防止会社規則違反する社員処刑小学校図書館栄養学校の開設などを行った1806年の春、飢餓苦しむ冬が去ると、レザノフ沿岸寄航するアメリカ人船長から船を買い、スペイン領カリフォルニアアルタ・カリフォルニア)へ船出した。この航海には、ヌエバ・エスパーニャとの間に協定を結び、年2回交易行って食糧難アラスカメキシコ食糧備蓄する狙いもあった。途中で大嵐にあったため、当初の目的であったコロンビア川河口付近現在のワシントン州およびオレゴン州)のロシア領有宣言を行うことはできなかったが、サンフランシスコ港に到達し投錨することができた。 レザノフ現地スペイン人たちから敬意を受け、連日連夜大歓迎祝宴もてなされた。しかしスペイン法によりスペイン植民地外国勢力との交易禁じられていることをレザノフ知らされカリフォルニア官僚たち賄賂買収応じず、交渉不調に終わった。この時、サンフランシスコ会ったアルタ・カリフォルニア総督ホセ・ダリオ・アルゲージョ(José Darío Argüello)の15歳の娘コンセプシオンコンチータ)と相思相愛となったロシア正教徒であるレザノフカトリック信者であるコンセプシオンとの結婚大問となったが、レザノフ外交の手腕もあり聖職者反対押し切って婚約することになったスペイン政府ロシアとの条約前向きに考えるよう現地官僚約束しサンフランシスコ到着から6週間後の5月10日レザノフ一行食糧満載して出港し6月8日アラスカのノヴォアルハンゲリスクへと帰った

※この「アラスカとカリフォルニア」の解説は、「ニコライ・レザノフ」の解説の一部です。
「アラスカとカリフォルニア」を含む「ニコライ・レザノフ」の記事については、「ニコライ・レザノフ」の概要を参照ください。

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