アラスの戦い
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「エルヴィン・ロンメル」の記事における「アラスの戦い」の解説
詳細は「アラスの戦い (1940年)」を参照 ヒトラーは5月19日に進軍停止命令を解除し、グデーリアンとラインハルトの装甲軍団以外の装甲部隊も西方進撃を再開することになった。 第7装甲師団は5月20日にアラスへの攻撃を開始した。しかし先陣の装甲部隊と後続の歩兵部隊の間にフランス軍が介入したため、まずその対処にあたらねばならなかった。同日にグデーリアンの装甲軍団が英仏海峡に面するアブヴィルに到達し、ベルギー・北フランスにいる連合国主力を孤立させることに成功した。イギリス海外派遣軍司令官第6代ゴート子爵ジョン・ヴェレカー大将はこの封鎖の突破を図るため、5月21日午後にロンメルの師団や武装親衛隊の髑髏師団が展開するアラス方面に攻勢をかけさせた。 この時、第7装甲師団は髑髏師団と共にアラス南西を北へ旋回して進軍していたところだったため、イギリス軍に右側面をつかれる形となった。イギリス軍の戦力の中で最も厄介だったのはマチルダII歩兵戦車だった。マチルダの重装甲はロンメルの師団の3.7センチ対戦車砲をことごとく弾き返し、砲兵の砲弾さえもはね返した。師団は88ミリ高射砲を対戦車砲として使用することでマチルダに対抗した。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカによる攻撃を受けてイギリス軍はようやく攻勢を諦めて撤退した。 しかしこの戦いで師団はかなりの損害を受けた。戦死と捕虜で250名を失い、ロンメルの副官モスト中尉もこの戦いで戦死した。IV号戦車3両、38(t)戦車6両、軽戦車多数を失った。
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アラスの戦い
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「ナチス・ドイツのフランス侵攻」の記事における「アラスの戦い」の解説
詳細は「アラスの戦い (1940年)」を参照 5月19日、ついにドイツA軍集団の先頭を行く第二装甲師団がドーバー海峡に達し、連合軍はフランス本土から切り離されてしまった。しかし、一方でハインツ・グデーリアンの装甲軍団は突出しすぎて後続の歩兵各師団とは離れてしまっており、連合軍の背後を完全に遮断するには至っていなかったため、連合軍のフランス本土への退却はまだ可能なように思われた。英国陸軍参謀総長エドムンド・アイアンサイドは、フランス軍司令部がA軍集団への反撃および連合軍-フランス本土間の連絡線の確保のための行動を起こさないことに業を煮やし、自ら作戦に介入することを決意した。ただし実際には、連合軍はドイツB軍集団による北東方向からの激しい圧迫を受けており、反対方向の南方面に転進させる兵力の余裕はなかった。 アイアンサイドはBEF司令官ゴート子爵ジョン・ヴェリカーと協議し、フランス第一軍集団司令官ガストン・ビヨットを説得して、英仏共同による南方面への反撃を行うことで同意に至った。21日、予備兵力として温存されていたイギリス海外派遣軍二個師団によるアラス方面への反撃が開始された。しかし、事前の連絡不徹底と英仏両軍間の不和により、同時に行われるはずであったフランス二個師団によるカンブレー方面への攻撃は翌22日に延期されてしまった。また、これも事前確認の不徹底により、二個師団によって全力で行われるはずであった英軍によるアラス方面への反撃も、実際には戦車二個大隊と歩兵二個大隊にフランス軍の戦車が若干加わっただけの兵力で行われた。 だが、この反撃はタイミングがよかったため予想以上の効果をもたらした。無線設備をほとんど持たず、ドイツ軍に制空権を掌握され偵察もできなかった英軍にとってはまさに五里霧中の作戦行動であったが、ちょうどアラスを迂回して突進中であったエルヴィン・ロンメルの第七装甲師団の横っ腹に突っ込む形となったのであった。当時、第七装甲師団の戦車連隊は二つとも遠く前進してしまっており、アラスの南側を進撃中であった狙撃兵連隊(名称は「狙撃兵」だが、実態は自動車化歩兵)と砲兵隊が、英軍の戦車二個大隊による襲撃を受けることになった。 本来、第七装甲師団の北側を防御するはずだった第五装甲師団は進撃が遅れており、第七装甲師団の南側を併走していたSS師団「トーテンコップ」は戦闘経験がなく、英軍の戦車を目にするや戦わずして逃亡してしまった。第七装甲師団は直ちに対戦車陣地を構築して迎え撃ったが、師団長のロンメルは不在であり、英軍のマチルダII歩兵戦車の分厚い装甲に37mm対戦車砲が歯が立たず、英軍に突破されてしまうかに思われた。しかし、前進していたロンメルが戻ってくるとドイツ側は陣地の再構築を行い、特に88mm高射砲による水平射撃がマチルダII歩兵戦車に有効だったこともあり、英軍戦車の突進を食い止め、撃退することに成功した。さらに退却する英軍戦車大隊を、救援要請を受けたドイツ空軍の急降下爆撃機部隊が追撃し、英軍によるアラス方面への反撃はわずか半日で失敗、終結することになった。 一方、翌22日にフランス軍によるカンブレーへの攻撃が行われたが、前日のアラスでの戦いで警戒を強めていたドイツ空軍にすぐ発見されてしまい、激しい空爆を受けてやむなく撤退した。こうして、連合軍による南方面への反撃はたいした戦果を挙げることもなく失敗に終わった。 しかしこの戦いは二つの波紋を呼んだ。ひとつは、BEF司令官ゴートに英国本土への撤退を決意させたことと、もうひとつは連合軍が反撃してきたことにショックを覚えたヒトラーが、快進撃を続ける装甲各軍団に停止命令を下したことであった。結果として、ふたつの波紋がダンケルクの奇跡を起こすことになった。
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