アラスの戦いとは? わかりやすく解説

アラスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)

エルヴィン・ロンメル」の記事における「アラスの戦い」の解説

詳細は「アラスの戦い (1940年)」を参照 ヒトラー5月19日進軍停止命令解除し、グデーリアンとラインハルト装甲軍団以外の装甲部隊西方進撃再開することになった第7装甲師団5月20日アラスへの攻撃開始した。しかし先陣装甲部隊後続歩兵部隊の間にフランス軍介入したため、まずその対処にあたらねばならなかった。同日にグデーリアンの装甲軍団英仏海峡面するアブヴィル到達しベルギー・北フランスにいる連合国主力孤立させることに成功したイギリス海外派遣軍司令官6代ゴート子爵ジョン・ヴェレカー大将はこの封鎖突破を図るため、5月21日午後にロンメル師団武装親衛隊髑髏師団展開するアラス方面攻勢をかけさせた。 この時、第7装甲師団髑髏師団と共にアラス南西北へ旋回して進軍していたところだったため、イギリス軍右側面をつかれる形となったイギリス軍戦力の中で最も厄介だったのはマチルダII歩兵戦車だった。マチルダの重装甲ロンメル師団の3.7センチ対戦車砲ことごとく弾き返し砲兵砲弾さえもはね返した。師団88ミリ高射砲対戦車砲として使用することでマチルダ対抗した。さらにドイツ空軍急降下爆撃機シュトゥーカによる攻撃受けてイギリス軍はようやく攻勢諦めて撤退した。 しかしこの戦いで師団かなりの損害受けた戦死捕虜250名を失いロンメル副官モスト中尉もこの戦いで戦死したIV号戦車3両、38(t)戦車6両、軽戦車多数失った

※この「アラスの戦い」の解説は、「エルヴィン・ロンメル」の解説の一部です。
「アラスの戦い」を含む「エルヴィン・ロンメル」の記事については、「エルヴィン・ロンメル」の概要を参照ください。


アラスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:06 UTC 版)

ナチス・ドイツのフランス侵攻」の記事における「アラスの戦い」の解説

詳細は「アラスの戦い (1940年)」を参照 5月19日、ついにドイツA軍集団先頭を行く第二装甲師団ドーバー海峡達し連合軍フランス本土から切り離されてしまった。しかし、一方でハインツ・グデーリアン装甲軍団突出しすぎて後続歩兵師団とは離れてしまっており、連合軍背後を完全に遮断するには至っていなかったため、連合軍フランス本土への退却はまだ可能なように思われた。英国陸軍参謀総長エドムンド・アイアンサイドは、フランス軍司令部A軍集団への反撃および連合軍-フランス本土間の連絡線確保のための行動起こさないことに業を煮やし、自ら作戦介入することを決意した。ただし実際には、連合軍ドイツB軍集団による北東方向からの激し圧迫受けており、反対方向南方面転進させる兵力余裕はなかった。 アイアンサイドBEF司令官ゴート子爵ジョン・ヴェリカー協議しフランス第一軍集団司令官ガストン・ビヨット説得して英仏共同による南方面への反撃を行うことで同意至った21日予備兵力として温存されていたイギリス海外派遣軍二個師団によるアラス方面への反撃開始された。しかし、事前連絡不徹底英仏両軍間の不和により、同時に行われるはずであったフランス二個師団によるカンブレー方面への攻撃は翌22日延期されてしまった。また、これも事前確認不徹底により、二個師団によって全力行われるはずであった英軍によるアラス方面への反撃も、実際に戦車二個大隊歩兵二個大隊フランス軍戦車若干加わっただけの兵力行われた。 だが、この反撃タイミングよかったため予想上の効果もたらした無線設備をほとんど持たずドイツ軍制空権掌握され偵察もできなかった英軍にとってはまさに五里霧中作戦行動であったが、ちょうどアラス迂回して突進であったエルヴィン・ロンメル第七装甲師団横っ腹突っ込む形となったであった当時第七装甲師団戦車連隊二つとも遠く前進してしまっており、アラス南側進撃であった狙撃兵連隊(名称は「狙撃兵」だが、実態自動車化歩兵)と砲兵隊が、英軍戦車二個大隊による襲撃を受けることになった。 本来、第七装甲師団北側防御するはずだった第五装甲師団進撃遅れており、第七装甲師団南側併走していたSS師団トーテンコップ」は戦闘経験がなく、英軍戦車目にする戦わずして逃亡してしまった。第七装甲師団直ち対戦車陣地構築して迎え撃ったが、師団長ロンメル不在であり、英軍マチルダII歩兵戦車分厚い装甲37mm対戦車砲が歯が立たず英軍突破されてしまうかに思われた。しかし、前進していたロンメル戻ってくるとドイツ側陣地再構築行い、特に88mm高射砲による平射撃がマチルダII歩兵戦車有効だったこともあり、英軍戦車突進食い止め撃退することに成功した。さらに退却する英軍戦車大隊を、救援要請受けたドイツ空軍急降下爆撃機部隊追撃し英軍によるアラス方面への反撃はわずか半日失敗終結することになった一方、翌22日フランス軍によるカンブレーへの攻撃が行われたが、前日アラスでの戦いで警戒強めていたドイツ空軍にすぐ発見されてしまい、激し空爆受けてやむなく撤退した。こうして、連合軍による南方面への反撃たいした戦果挙げるともなく失敗終わった。 しかしこの戦い二つ波紋呼んだ。ひとつは、BEF司令官ゴート英国本土へ撤退決意させたことと、もうひとつ連合軍反撃してきたことにショック覚えたヒトラーが、快進撃続け装甲各軍団に停止命令下したことであった結果として、ふたつの波紋ダンケルク奇跡起こすことになった

※この「アラスの戦い」の解説は、「ナチス・ドイツのフランス侵攻」の解説の一部です。
「アラスの戦い」を含む「ナチス・ドイツのフランス侵攻」の記事については、「ナチス・ドイツのフランス侵攻」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アラスの戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アラスの戦い」の関連用語

アラスの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アラスの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエルヴィン・ロンメル (改訂履歴)、ナチス・ドイツのフランス侵攻 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS