対フランス戦
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「ゲルト・フォン・ルントシュテット」の記事における「対フランス戦」の解説
対フランス戦に備えて1939年10月15日にルントシュテットはA軍集団司令官に任じられた。引き続きマンシュタインがルントシュテットの下で参謀長を務め、彼が対フランス作戦を立案することとなった。 A軍集団はマジノ線への正面攻撃を避けてアルデンヌの森林地帯を突破、フランドルに展開する英仏連合軍をフランス本土から切り離して孤立させる役割を担うこととなった。したがってA軍集団には3つの軍集団の中で最も戦力が集められ、ドイツ軍10個装甲師団のうち7個装甲師団までがA軍集団に配置された。 1940年5月に対フランス戦が開始された。A軍集団はハインツ・グデーリアン中将の第19装甲軍団を中心にしてアルデンヌ森を通過してフランス領へなだれ込み快進撃を続けた。作戦中グデーリアンは介入が多い直接の上官エヴァルト・フォン・クライスト大将(装甲集団司令官)と激しく対立したが、ルントシュテットが巧みに仲裁し、グデーリアンに行動の自由を与えた。結果グデーリアンの装甲軍団は英仏海峡に到達し、作戦通りフランドルの連合軍を孤立させることに成功した。しかしアラスの戦いでの英軍の激しい反撃により慎重になったルントシュテットは、ヒトラーによる全装甲部隊へのダンケルク進撃停止命令に賛同してしまい、結果フランドルの連合軍に「ダンケルクの撤退」を許してしまった。 続く南フランスへの攻勢ではA軍集団はグデーリアンの装甲集団を主力に快進撃を続けた。フランスは6月22日に降伏した。 1940年7月19日、対仏戦勝利の勲功としてヒトラーがルントシュテットら12名の軍人を元帥に任じた。同年10月、フランス占領軍を統括する西方総軍司令官に任じられた。英本土に上陸するアシカ作戦が発動される際はルントシュテットのA軍集団がロンドンを陥落させることになっていたが、ドイツ空軍がバトル・オブ・ブリテンに敗れたためアシカ作戦は実行されなかった。
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対フランス戦
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「エーリッヒ・フォン・マンシュタイン」の記事における「対フランス戦」の解説
1939年末、ルントシュテットのA軍集団の参謀長となったマンシュタインは、ブルーメントリットとトレスコウと共にフランス侵攻作戦を立案した。マンシュタインは戦車部隊が行動し難いと思われるアルデンヌの森林地帯を通過することで敵の意表をつき、ミューズ川の橋梁を確保し、英仏海峡に到達し、ベルギーとフランドル(フランダース)に展開する英仏連合軍とフランス本土を断ち切ることが出来ると考えた。計画は大鎌作戦と呼ばれた。 陸軍総司令部(OKH)はこの作戦計画案を拒否したが、ヒトラーは革新的な作戦として修正案を採用した。作戦計画は後にマンシュタイン・プランと呼ばれた。しかしマンシュタインは、またもドイツ東部に左遷された。第4軍を指揮したのはクルーゲである。この部隊にはロンメル将軍の指揮する第7装甲師団も含まれていた。最初にアミアンの東を突破しセーヌ川に到達したのはマンシュタインの元部下たちだった。フランス侵攻は成功裡に終了し、この功績によりマンシュタインは騎士鉄十字章を受章した。
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