対フランス王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 09:50 UTC 版)
「ヨハネス15世 (ローマ教皇)」の記事における「対フランス王」の解説
ヨハネス15世の在任中にはまた、フランス王によるランス大司教叙解任に端を発する論争が巻き起こっていた。この混乱は叙任権闘争の初期段階と位置づけられる。 フランス王ユーグ・カペーはカロリング家出身のアルヌルフ(ロテールの庶子)を989年3月にランス大司教に任命した。しかしアルヌルフはユーグ・カペーを裏切り、叔父のロレーヌ公シャルルとともに同年9月にランスとランを占領した。ユーグ・カペーは反撃して2人を捕らえ、オルレアンに幽閉した。991年6月にランス近郊サン・バールでの教会会議で、アルヌルフは叛逆罪により降位させられ、後任にジェルベール(後のシルウェステル2世)が選出された。 サン・バール教会会議は教皇使節不在で行われたため、ヨハネス15世はローマから特使を派遣してアーヘンで教会会議を開催し、サン・バール会議の反対決議を採択させようとしたが、アーヘン会議にフランス司教たちは参加せず、集まったドイツやロレーヌ地方の司教たちのみにより採択され、ジェルベールを破門とした。インゲルハイムでの会議にもフランス司教たちは参加しなかった。しかもフランス司教たちは994年にシェル教会会議を開いてアーヘンとインゲルハイムでの決議を無効とした。
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