ボードゥアンの帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:34 UTC 版)
「ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル」の記事における「ボードゥアンの帰還」の解説
エノー年代記によると、フランドルおよびエノー総督アルヌール・ド・ギャヴルはヴァランシエンヌで、フランシスコ会の装束を身に着けた叔父ジョス・ド・マテルヌを見つけた。叔父に尋ねると、20年も囚われの身であったブルガリアから逃亡したボードゥアンと配下の者たちがいると知らされたのである。リメ年代記では、フィリップ・ムスケスが同時代のことを記録している。素性の知れない者が、ボードゥアンの帰還を発表し資金を配布していたというのである。1225年、トゥルネーとヴァランシエンヌの間に広がる森の中、モルターニュ近くに住む隠者が、実際に自分がボードゥアンだと認めた。彼はフランドル伯領とエノー伯領におよぶ主権を自分に返還するようジャンヌに求めた。 ボードゥアンは真のフランドル伯・エノー伯のように振る舞い、騎士を授爵し、法令に署名した。急速に、彼はエノー伯領の貴族から支持を受けるようになり、それにはジャン・ド・ネール、ロベール3世・ド・ドルーが含まれていた。それから彼はリールとヴァランシエンヌを含むフランドルとエノーの諸都市大多数から支持を受けるようになった。イングランド王ヘンリー3世ですら、対フランス王同盟の刷新を申し出たうえ、この政策をブラバント公国とリンブルク公国が支持した。ジャンヌは顧問アルヌール・オーデルナルデを派遣した。アルヌールは隠者と面会できなかったにもかかわらず、彼が本物のボードゥアンだと確信して戻ってきた。他の証人たちはより懐疑的であったが、彼はジャンヌに買収された者たちであると非難されてしまった。 ジャンヌは自らに唯一忠実であった都市モンスへの逃亡を余儀なくされた。2万リーブルの支払いと、ドゥエーとレクリューズに代官を置く約束に対して、ルイ8世はジャンヌの権利回復のため自らの軍隊を動かすことに同意した。厳しく支援が交渉された。ジャンヌは戦争で生じた代価の支払いに同意し、ドゥエーとレクリューズの町のためこの約束を請合ったのである。 軍事作戦を開始する前に、ルイ8世は叔母のシビーユ・ド・ボージュー(ボードゥアン1世の妹)を隠者との会見のため送り込んだ。それで彼の正体に疑問が生じた。1225年5月30日、王はボードゥアンを自称する者とペロンヌで会い、彼のこれまでの人生の詳細をたずねた。彼は自分が騎士に授爵されたのはいつ・どこでか思い出せなかったばかりか、自らの婚礼の夜も思い出せなかった。オルレアン司教とボーヴェ司教は、ボードゥアンと同じようにアドリアノープルの戦いで消息を絶ったブロワ伯ルイに自らを偽装しようとした彼を、言葉を巧みに操る者だと認定した。彼が詐欺師であることを確信したルイ8世は、3日以内に立ち去るよう猶予を与えた。偽ボードゥアンは追従者たちとともにヴァランシエンヌへ逃亡した。しかし町はフランス人によって迅速に奪還された。ジャンヌは偽ボードゥアンの無条件降伏を要求した。偽ボードゥアンはその後ケルン大司教のもとへ避難したが、彼の支持者たちは彼のもとに残る者と逃亡する者とに分かれた。ブザンソン近くで捕らえられた偽ボードゥアンは、ジャンヌのもとに連行された。彼を殺さないよう約束したにもかかわらず、ジャンヌは偽ボードゥアンを2頭の犬の間においたさらし台にさらし、その後リールの城門から吊るして処刑した。マルグリット・ド・コンスタンティノープルの元夫で、ジャンヌによって遠ざけられたブシャール、彼が黒幕であった可能性がある。偽ボードゥアンは、2つの伯領の相続人として息子には正当な権利があると認識していた。 反乱を起こした町を取り戻すと、ジャンヌは重い税を課した。これにより、翌年から20年かけて払うことになっていた、フランス王への債務を支払えただけでなく、夫フェランの身代金を支払えることになった。
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