ボードゥアン1世皇帝の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:50 UTC 版)
「アドリアノープルの戦い (1205年)」の記事における「ボードゥアン1世皇帝の終焉」の解説
ブルガリアに捕らえられた後、皇帝ボードゥアン1世の消息は臣下に知られず、不在の間は弟のヘンリーが摂政を務めることになった。ボードゥアン1世が捕虜として死亡したことは知られているが、その死の正確な状況は不明である。当初は貴重な囚人として扱われたが、後にツァレヴェッツの塔の一つで死ぬまで放置されたようだ。彼の死については多くの伝説があり、最も有名なのは、カロヤンの妻を誘惑しようとしたために死んだというものである。歴史家ジョージ・アクロポリスは、約400年前のニケフォロス1世の時と同じように、皇帝がボードゥアン1世の頭蓋骨を酒杯にしたと報告しているが、ニケフォロス1世の時とは異なり、これを確認する証拠は見つかっていない。しかし、確実に分かっていることは、カロヤンが皇帝の獄死を教皇インノケンティウス3世とボードゥアン1世の裁判所の両方に報告したということである。中世ブルガリアの首都ヴェリコ・タルノヴォのツァレヴェツ要塞の塔は、現在でも「ボードゥアンの塔」と呼ばれている。
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