対ヒトラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「対ヒトラー」の解説
チャーチルは1932年夏に初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツ・バイエルン州・ミュンヘンに立ち寄ったことがあった。その時期ドイツでは国会議員選挙が行われ、国家社会主義ドイツ労働者党が第一党となり、その党首アドルフ・ヒトラーが近いうちにパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命される可能性が高まっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチ党幹部エルンスト・ハンフシュテングルと知り合い、ヒトラーとの会談を勧められ承諾した。しかし、チャーチルはシオニズムを支持している政治家だったためハンフシュテングルに「なぜヒトラーはユダヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか」という質問をぶつけ、この質問がヒトラーの耳に入って機嫌を損ねたらしく、会見はヒトラーから拒否された。 後世にチャーチルは「こうしてヒトラーは私と会見するただ一度のチャンスを逃したのだった。ヒトラーが政権を握ってから、何度か会談オファーがあったが、私は口実を作って断った。」と回顧している。半年後の1933年1月に首相に任じられたヒトラーは独裁体制を整え、1935年3月には念願のヴェルサイユ条約ドイツ軍備制限条項の破棄を宣言して再軍備を開始した。 イギリスでは一般に保守党の政治家はナチ党に同情的だった。ヴェルサイユ条約のようなものを押し付けられては、その撤廃を主張するのは無理からぬことだし、ナチ党とドイツ共産党以外の政党が力を失っているドイツではもしナチ党を政権から引き降ろせば、代わって政権につくのは恐らく共産党だった。そのためヒトラーの再軍備計画を徹底的に抑えつけるより、ある程度の国力回復を許し、対ソ防波堤にするのがよいと考える対独融和派が多かった。保守党党首ボールドウィンやその後任の党首となるネヴィル・チェンバレンも同様であった。 ところがチャーチルはこうした立場に立たず、対独強硬論者となった。ドイツに再軍備を許せばドイツは帝政時代並みの国力を備えようとするだろうし、反ソ防波堤のメリットより、大英帝国の世界支配体制をドイツが再び脅かすというリスクの方が大きそうに思えた。また1930年代のチャーチルは干されていたことから、あえて保守党主流と一線を画す対独強硬論に立つことで、ドイツ脅威論が盛り上がってきたところを保守党中枢に返り咲こうという政治的狙いだった可能性もある。チャーチルはドイツの再軍備要求は断固拒否し、イギリスは軍備増強を行うべきであると主張した。また次の戦争では海軍ではなく空軍が決定的役割を果たすと見ていたチャーチルは、とりわけドイツ空軍の増強に警鐘を鳴らした。 1936年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約で非武装地帯と定められていたラインラントにドイツ軍を進駐させた。フランス政府は対独開戦すべきかどうか判断に迷い、イギリス政府に伺いを立てたが、ボールドウィン首相(マクドナルドは1935年6月に退任し、保守党党首ボールドウィンが再び首相となった)は融和政策に基づき、放置すべしとした。イギリス国内の世論も「ドイツの領土にドイツ軍が入っていっただけ」という融和的空気が強かった。だがチャーチルは一人激怒し、「クレマンソーだったらボールドウィンごときに諮ることなく、ただちに戦争を開始しただろう」と述べ、フランスの人材不足を嘆いた。 一方でヒトラー以外のファシズム指導者には好意的であり、1935年にムッソリーニのエチオピア侵攻について帝国主義者の立場から「エチオピア人はインド人と同類であり、支配されるべき原始的人種」として熱烈に支持した。1936年のスペインのフランコ将軍による左翼との戦い(スペイン内戦)も反共主義者としての立場から共感を持ち、労働党が左翼政府を支持しようとするのに対してチャーチルはボールドウィン内閣の不干渉方針を支持した。
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