1916年-1917年
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「イギリス陸軍航空隊」の記事における「1916年-1917年」の解説
1916年のソンムの戦いの前に、RFCは凧式気球飛行隊4個と気球飛行隊14個に加えて421機の航空機を集結させた。これらはイギリス陸軍の4個軍と協同するために4個旅団に編成された。1916年7月に始まったソンムの攻勢が11月に終結したとき、RFCは800機の航空機と252人の搭乗員を(種々の原因で)失っていた。 1917年の初め、連合国空軍は、ドイツ空軍の優勢が組織と機材(数はともかくとして)の両面で強化されていることに気づかされた。アルバトロス戦闘機を装備して新たに編成された「戦闘機中隊(Jastas)」は、RFCのますます旧式化してゆく航空機に膨大な損失を与え、「血の4月」と呼ばれる、RFCにとって大戦中最悪の運命をもたらした。 1917年4月9日に開始されたアラスの戦いを支援するために、RFCは25個飛行隊、合計365機を配備した。そしてその3分の1は戦闘機(スカウト)だった。イギリスは245機と、搭乗員の戦死・行方不明211名、捕虜108名という損失を被った。ドイツ航空部隊の損失はすべての原因によるものを合計しても66機に過ぎなかった。 しかし1917年夏までには技術的に進んだ次世代の戦闘機(例えばS.E.5、ソッピース キャメル、ブリストル F.2 ファイターなど)が導入され、その結果、撃墜や破壊による損失は減少し、一方敵の損害は増加した。 イギリス陸軍への近接支援や空陸協同作戦は1917年11月にはさらに発展していた。カンブレーの戦いにおいて、低空を飛行する戦闘機と、戦車および歩兵による前進縦隊は極めて効果的な協同作戦を展開した。 1917年におけるRFC搭乗員の戦死または行方不明は2,094名を数えた。
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