1916年 - 砲撃戦と消耗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:37 UTC 版)
「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「1916年 - 砲撃戦と消耗」の解説
パリ マルヌ ヴェルダン ソンム アーヘン フランスにおける関連地(注:国境線は現代のもの) ドイツ軍の総司令官を務めるエーリッヒ・フォン・ファルケンハインは、既に西部前線の突破は不可能となったと思っていた。戦争に勝利するためには、フランス軍に対して耐えきれないほどの死傷者を与えることが必要であると考えた彼は、消耗戦の考えに則って攻撃を計画した。 この攻勢計画においては2つの戦略が導入された。一つめは無制限潜水艦作戦の実行である。これは主にアメリカ合衆国より供給されていた英仏軍の糧食を遮断することを目的としている。もう一つはフランス軍に対する「効率的な」攻撃である。地形的にフランス軍が不利な地区において攻撃を仕掛け、それによって敵の死傷者数対自軍の損耗比を最大にすることを意図とした。攻撃目標としては、フランス軍が戦略上およびプライドの観点から絶対に撤退することのできない箇所を選定した。結果としてパリへの直線進路にあたる町ヴェルダンが選出され、作戦名「処刑場」(Gericht)が開始された。 ファルケンハインは攻撃を行う前線の幅を3キロから4キロに制限した。これによって火力の集中が可能になり、さらにフランス軍の反攻も難しくなる。予備部隊を前線背後に控置し、即座に前線に送れるよう鉄道網を整備した。攻撃前には航空機をヴェルダン付近に集中させ、フランス軍の偵察を不可能にするために制空権を確保しようと試みた。しかし5月にフランス軍において最新式のニューポールの戦闘機が導入されたため、両空軍の間に激しい消耗戦が展開されることになった。
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