1916年のストライキ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 08:05 UTC 版)
「セリフォス島」の記事における「1916年のストライキ」の解説
20世紀、セリフォス島の鉱山はドイツ人の鉱山学者A・グローマンが監督する「セリフォス=スピリアゼザ鉱山協会」によって開発されていた。1916年の夏、低賃金、長時間労働、ぜい弱な安全対策、それに兵役満了後の労働者の再雇用を会社が拒否したことを理由に、460人の鉱夫が労働組合を組織し、ストライキを行った。この島の出身で、エジプトで教育を受けたあと、ギリシャ本土で労働闘争を展開していたアナルコ=サンディカリストのコンスタンティノス・スペラスがリーダーになった。これに対して、グローマンはギリシャ当局に支援を要請し、近くのケア島に駐屯する30人の憲兵が派遣された。スペラス以下のストライキ委員を拘留したあと、憲兵の中尉は、鉱石を積み出すメガロ・リヴァディのドックに集まり、貨物船への搬入を拒んだ労働者を解雇するよう要求した。4名の労働者が殺され、12人が負傷した。労働者はその妻らの助けを得て投石で抵抗し、3人の憲兵を殺害し、一隊を撤退させた。島内の施設を掌握した労働組合は、ミロス島に停泊するフランス艦隊によって島は保護されるという声明を発した。労働者階級による組織固めに向けた努力がなされたが、フランス海軍の干渉とギリシャ軍の到着で頓挫した。逮捕されたスペラスは大逆罪で起訴されたが、王党派政権が倒れた数ヵ月後に釈放された。グローマンは労働条件の改善と8時間労働を実現し、鉱山の支配人に復帰した。スペラスはアテネで労働運動を続けたが、1943年、伝えられるところによればギリシャ共産党 (KKE) の過激分子によって暗殺された。
※この「1916年のストライキ」の解説は、「セリフォス島」の解説の一部です。
「1916年のストライキ」を含む「セリフォス島」の記事については、「セリフォス島」の概要を参照ください。
- 1916年のストライキのページへのリンク