1917年 - イギリス軍による主導権確保
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「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「1917年 - イギリス軍による主導権確保」の解説
ヒンデンブルク線への後退計画はアルベリッヒ作戦(英語版)と名付けられた。翌1917年2月9日に開始された撤退は4月5日に完結した。ノワイヨンへの攻撃を意図していたフランス軍の計画はこれによって空振りに終わった。イギリス軍においては、この後退はソンムでうけた損害によるものであるとの主張がなされ、ドイツ軍が疲弊しているとの印象を与えていた。 一方で4月6日にアメリカ合衆国が連合国側に立って参戦した。これはUボートによる無制限潜水艦作戦の再開や、ツィンメルマン電報事件が原因である。一時はイギリスの物資補給に深刻な影響を与えていた潜水艦作戦も、護送船団の導入によって被害数が劇的に減少した。1917年4月にイギリス軍はアラスの戦い(英語版)を開始したが、ヴィミー山稜の戦い(英語版)におけるカナダ軍団およびイギリス軍第5歩兵師団の成功にもかかわらず、戦線拡大は失敗に終わった。 1917年の冬になると、ドイツ空軍の戦術改善が効果を上げ始めた。ヴァランシエンヌに設置されていた飛行学校における訓練によって、ロッテ戦術と称される2機の戦闘機を用いた戦術が導入された。これによって英仏軍の戦闘機には多大な損害が生じた。特にイギリス軍では機体の更新時期にあたり、新兵の訓練も行き届いていなかった為に大きな損害が生じた。アラスの戦いにおける搭乗員の損失は、ドイツ軍の114人に対してイギリス軍では316人であった。
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