1917年7月〜
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「パッシェンデールの戦い」の記事における「1917年7月〜」の解説
ドイツ軍は7月にマスタードガスをイーペルで初めて実戦投入した(「イペリット」という通称の由来)。これは人体の皮膚や粘膜を襲い、皮膚や呼吸器に糜爛や炎症を起こし、眼を焼いて失明に至る場合もあり、非常な苦痛を伴った。 メシヌ高地奪取に続き、作戦の第二段階として、サー・ヒューバート・ゴフ(en:Hubert Gough)将軍率いる第五軍に対しイーペルを見下ろすゲルベルト台地を制圧するという任務が与えられた。多数の砲兵部隊が該当戦域に集められ4日間に渡り準備砲撃を実施したが、これによりドイツ軍は連合軍の攻勢意図を察知しかえって守備兵力を増強した。 連合軍が攻勢を進める上での障害の一つはイーゼル運河だったが、これは7月27日、ドイツ軍の塹壕が無人であることに連合軍が気付いて突破された。この4日後、主攻勢が開始され、ピルケム高地への大規模突撃により約1.8km前進したが、このたった一つの戦闘で連合軍は死傷者・行方不明者合計32,000人という損害を出した。その後も8月を通じてゲルベルト台地への攻勢は続くがことごとく失敗に終わった。 この作戦の全期間を通じ、地表状態は悪かった。絶え間のない砲撃は排水用の用水路を破壊してしまい、季節外れの大雨と相俟って、付近一帯は泥濘と満水の砲弾孔で覆い尽くされた。危険と判断された地帯には泥の上に通行用の板が渡されるなどしたが、当時の兵士が帯びた装備は約45kgにもなり、足を滑らせて砲弾孔にでも落ちればそのまま溺死する危険があった。辺りの樹木は葉も枝も吹き飛ばされて幹のみとなり、埋葬された戦死者の遺体は雨や砲撃で掘り返されてしばしば地表に露出した。
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