メシヌ高地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 00:48 UTC 版)
「パッシェンデールの戦い」の記事における「メシヌ高地」の解説
第一次イーペル会戦においてイーペル北方の橋をドイツ軍が奪取した結果、付近の連合国戦線はドイツ側に突出する形になり、周囲をドイツ軍に囲まれた上に高地のドイツ軍砲兵から見下ろされていた。連合軍最高司令官サー・ダグラス・ヘイグ元帥は、この突出部からベルギーの海岸線まで突破してドイツ軍の潜水艦基地を占拠することを決断した。作戦が成功すれば、独潜水艦隊を無力化できる他に連合軍戦線を整理・短縮しつつ新戦線の背後に多くのドイツ軍部隊を分断・包囲できると思われた。 攻勢開始にあたりヘイグは第二軍司令官のハーバート・プルーマー将軍(en:Herbert Plumer, 1st Viscount Plumer)に対し、戦略要地であるメシヌ高地の確保を命じた。 1915年春以来イーペル近郊に展開していた第二軍はメシヌ高地周辺の独軍陣地に対し緻密な坑道網を築いていた。1917年6月7日、ドイツ軍根拠地の地下にトンネルを掘って455トン(1,000,000 lb) のアンモナルを爆発させ1万人の独軍守備隊が瞬時に壊滅し、メシヌ高地は英軍の手に落ちた。これは、人間が意図して行った爆破としては核兵器以外では最大規模のものである。
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