攻勢開始
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ソビエト赤軍の攻撃は攻勢前の準備重爆撃を行った上で1月13日に開始された。ケーニヒスベルクの東、インスターブルクの細い道や、ハイルスベルク(英語版))などの地形的に有利な地点で防衛が行えるドイツ軍の利点に対して、ソビエト赤軍は多大な犠牲を出しつつも安定した進撃を見せた。この数日に渡り、第4軍(司令官フリードリヒ・ホスバッハ)がソビエト赤軍の側面への迂回に気づき始める間、第3装甲軍(司令官エアハルト・ラウス)は大きく撃破され、ケーニヒスベルクに退却した。 1月14日、ロコソフスキーはナレフ川(英語版)全体で攻撃を開始、1月20日、エルビングへ向けて北へ主軸を回すよう命令された。この突然の方向転換はラインハルトとホスバッハを驚かすこととなり、ロコソフスキーの右側面で第3親衛騎兵軍団は1月22日、アレンシュタインを占領、ホスバッハの後方を脅かした。1月24日までにロコソフスキー以下の主力戦車部隊はフリッシュ潟(英語版)に到着、そのため、東プロイセンに集中していたドイツ第4軍と第2軍の一部師団は残りのドイツ軍と分断された。同じ日、ホスバッハは防御を固め、東プロイセン防衛拠点の中心であるレッツェンから撤退、西へ突破を図る一連の強行軍を開始しようとしていた。 一方、チェルニャホフスキーは東から防衛拠点を包囲することに成功、ドイツ第3装甲軍の残存部隊をケーニヒスベルク、ザームラント(英語版)へ押し込んだ。1月28日、バグラミヤンの部隊はメーメルを占領、町の防衛を担当していた3個師団の残存部隊は防衛を強化するため空としており、ザームラントへ移動していた。
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攻勢開始
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「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」の記事における「攻勢開始」の解説
1944年2月中旬、ドイツ第1装甲軍はウクライナ北西部の防衛にあたっていた。軍司令官はハンス=ヴァレンティーン・フーベ上級大将。3個装甲軍団、すなわち約20個装甲師団、もしくは装甲擲団兵師団より構成され、補助部隊を含めると総兵力200,000名以上、南方軍集団(司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン)の中でも最も強力な部隊であった。しかしこの時期においては、コルスン包囲戦で包囲されていたドイツ2個軍の救出活動を終了したところであり、特に第III装甲軍団は戦力を著しく消耗していた。 これと睨み合うソビエト赤軍第1ウクライナ方面軍集団を率いるゲオルギー・ジューコフ元帥は第1装甲軍の重要性を把握し、この部隊を撃滅することによって独軍戦線の南翼を崩壊させるべく攻撃作戦を立案した。ジューコフ直率の第1ウクライナ方面軍集団とイワン・コーネフ元帥率いる第2ウクライナ方面軍集団は南方軍集団の戦線の南北両端で同時攻勢を開始、2個航空軍を含む11個軍が第一装甲軍の側面を突いて包囲、スターリングラード攻防戦の再現を行い、ドイツ軍が全て降伏するまで包囲網を締め上げることとなった。 マンシュタインは全戦線に渡って大規模な部隊移動が行われていることを知ったが、ソ連軍は同時に大規模な欺瞞活動を行ったため、攻勢の正確な位置や日時は掴めなかった。また戦略的撤退をドイツ総統アドルフ・ヒトラーが禁じていたことにより、第1装甲軍をソ連軍の攻勢から救うために彼ができることはもはやほとんどなかった。 3月初旬、ソビエト赤軍による攻撃はジューコフに直接指揮された第3ウクライナ方面軍集団(司令官ニコライ・ヴァトゥーチン)によって開始され、圧倒的な物量により、ドイツ第1装甲軍は北側の部隊をドニエストル川沿いに撤退させた。その後も赤軍は絶え間ない攻撃を仕掛けたが、、ドイツ軍は3月末までこの地点で戦線を保持した。1944年3月、ソ連軍は新たに部隊を交代させ、第1戦車軍、第3親衛戦車軍、第4戦車軍所属の5個戦車軍団がテルノーピリ東でドイツ第1装甲軍の戦線最北端を突破し、ズブルチ川、セレト川の間を南へ進撃した。ソビエト赤軍はドニエストル川を渡り、ドイツ第1装甲軍を側面から包囲するために、チェルノフチへさらに進撃、一方で、ドイツ軍防衛線にできた突破口の両側面を固めるべく狙撃師団が続いた。
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