攻勢の終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 08:40 UTC 版)
「フィンランドのカレリア地峡再占領」の記事における「攻勢の終了」の解説
8月31日、マンネルハイムはラヤヨキ川河口からオフタの線で攻撃を中止するように命令した。オフタからラドガ湖の間の厳密な線はのちに命令された。この近くが旧国境線であり、フィンランド軍はそこにたどり着いたのである。この結果ソ連のレニングラード北要塞線(KaUR)への攻撃を求められなかったため戦線は短くなった。ソ連軍は6歩兵師団、多くの独立大隊や独立連隊がレニングラード北部を護っていた。しかし、これらの軍はフィンランド軍との戦闘で戦力を半減していた。 フィンランド第12師団は目標に既に9月1日に到達していたが、9月2日には他所で戦闘が始まった。第18師団は同じ日にマイニラ(Mainila)を占領し、翌日ヴァルケアサーリ(Valkeasaari 現在のBeloostrov)を占領した。9月7日、第2師団と第18師団は共に目標にしていたラヤヨキ川とオフタに到達した。第I軍の司令官Colonel Mäkinenはオフタ湖とラドガ湖、レンパーラン湖(Lempaalanjärvi)の旧国境から少し進むことを命じ、防衛に良い地点を見つけそこで攻撃を終えた。しかし、9月4日にはソ連軍から攻撃が始まり、9月6日に第10師団はキルヤサロ(Kirjasalo)でソビエト第941歩兵連隊を包囲殲滅した。最終的に9月9日には命令された線に全てのフィンランド軍が移動し、防御を開始した。 ソ連軍の司令部はすぐにフィンランド軍の攻撃圧力が減少したのを知った。また、既に9月5日にはドイツ軍に対抗するために2師団をカレリア地峡からレニングラードの南部に向けて移動している。
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