攻勢の失敗と七月蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:19 UTC 版)
第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、前線において大攻勢(ケレンスキー攻勢)を仕掛けた。将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。しかし6月18日に始まった攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。 攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。7月3日、ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定した。他の部隊や工場労働者も呼応し、その日のうちに武装デモが始まった。 詳細は「七月蜂起」を参照 しかしソヴィエトの中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否した。 7月4日になるとデモの規模はさらに拡大したが、政府とソヴィエト中央を支持する部隊が前線からペトログラードに到着し、力関係が逆転した。武装デモは失敗に終わった。 デモを扇動したのはアナーキストであり、ボリシェヴィキは当初の段階ではデモを抑える姿勢をとっていた。しかし抑えきれないまま始まってしまったデモを支持する以外なくなった。デモが失敗に終わると一切がボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、激しい弾圧を受けることになった。トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。 レーニンは、この七月蜂起により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行した、と評価し、四月テーゼの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけた。このスローガンは権力の平和的移行を意味するものだったため、その放棄とは実質的には武装蜂起による権力奪取を意味した。ボリシェヴィキは7月末から8月はじめにかけて開かれた第六回党大会でレーニンの呼びかけに基づく決議を採択した。
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