にがつ‐かくめい〔ニグワツ‐〕【二月革命】
2月革命
(二月革命 から転送)
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- 1848年のフランス革命 - 1848年にフランス王国で起こった革命。国王がイギリスに亡命し、第二共和制が成立した。
- 2月革命 (1917年) - 1917年にロシア帝国で起こった革命。ロシア帝政が倒れ、立憲民主党を中心に臨時政府が成立した。3月革命ともいう。
- エドゥサ革命 - 1986年にフィリピンで起こった民主主義革命。「ピープル・パワー革命」ともよばれる。フェルディナンド・マルコスが退陣・亡命し、コラソン・アキノが大統領に就任した。
二月革命
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「アレクサンドル・ケレンスキー」の記事における「二月革命」の解説
1917年3月8日(ユリウス暦2月23日)、ペトログラード(サンクトペテルブルク)におけるデモをきっかけに二月革命が開始されると、改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーはロシア国会臨時委員会(英語版)の委員に選出され、同時にペトログラード・ソヴィエト(英語版)の副議長に任命された。3月16日(ユリウス暦3月3日)に臨時政府が樹立されると司法大臣として入閣した。4月には、英仏に戦争継続を確約したことが発覚して批判を受けた外務大臣パーヴェル・ミリュコーフと陸海軍大臣アレクサンドル・グチコフが辞任に追い込まれ、ケレンスキーは陸海軍相に就任した。この時、兵士と労働者の人気はソヴィエト出身のケレンスキーに集まっており、臨時政府の実権も彼が握っていた。 5月23日(ユリウス暦5月10日)には戦争継続を主張し、各地を遊説した。陸軍総司令官をミハイル・アレクセーエフからアレクセイ・ブルシーロフに代え、ドイツ帝国に対する攻勢を命令した(ケレンスキー攻勢)。しかし、指令系統が破綻しつつあるロシア軍は攻勢に失敗し、逆に7月14日ドイツ東部方面軍は反攻に転じ、ロシア軍の前線は全面崩壊した。ケレンスキーは敗北の責任を軍部に追及され弁明に終始したが、兵士から「説得司令官」と揶揄された。 7月16日(ユリウス暦7月3日)にはペトログラードでボリシェヴィキが蜂起する七月蜂起が発生し、リヴォフは首相を辞任に追い込まれ、ケレンスキーは7月21日に首相に就任した。8月には陸軍総司令官ラーヴル・コルニーロフがボリシェヴィキ排除を目指しペトログラードに進軍した(コルニーロフ事件(英語版))。9月9日にケレンスキーはコルニーロフを更迭したが、コルニーロフはコサック部隊を首都へと向かわせた。ケレンスキーはボリシェヴィキの赤軍に助力を要請、士気の低いコサック部隊は命令を拒否して原隊に復帰し、コルニーロフは逮捕された。ケレンスキーは自ら陸軍総司令官に就任するが、臨時政府の影響力は低下し、ボリシェヴィキが勢力を増大することになった。 9月15日(ユリウス暦9月1日)、ケレンスキーは国号を「ロシア共和国」に変更した。ケレンスキーは憲法制定議会が設立されるまで権力を維持しようと努めたが、社会革命党の理念である社会主義に反する共和制宣言により、党内から批判が生じた。共和制宣言後、ケレンスキーは外相ミハイル・テレシチェンコ、陸相アレクサンドル・ヴェルホフスキー、海相ドミトリー・ヴェルデレフスキー(ロシア語版)、郵政電信相アレクセイ・ニキーチンを最高会議委員に任命し、自身が主席となった。以後、ケレンスキー政権はこの5人によって指導されることになる。 当初は兵士からの人気があったケレンスキーだったが、戦争継続を訴え続ける彼に対し、「ロマノフ朝が崩壊すれば戦争は終わる」と考えていた兵士たちは次第に「平和、土地、パン」を主張して講和を掲げるボリシェヴィキを支持するようになった。兵士たちは次々に脱走し、1917年秋には兵力は200万人まで減少していた。一方、ケレンスキーや閣僚は、戦争から離脱した場合に英仏からの食糧供給が絶たれ国内が混乱することを恐れ、戦争を継続する以外に選択肢がなかった。また、反ボリシェヴィキで共闘する立場だったコルニーロフを逮捕してしまったことで、ボリシェヴィキに対抗する戦力も失っていた。
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