二月堂良弁杉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/01 05:54 UTC 版)
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二月堂良弁杉とは奈良の市民劇団 劇団「良弁杉」が平成7年より公演しているミュージカル。
=あらすじ=
奈良時代。近江の国志賀の里(滋賀県)に、ある夫婦が住んでいました。結婚して何年もの間、子どもに恵まれませんでしたが、観音様にお願いして元気な男の子を授かり「金鐘」と名付け大切に育てました。 ところがある日、夫婦が桑畑で柔摘みをしていると、急に暗雲が垂れこめ、金鐘は一瞬のうちに大鷲にきらわれてしまいます。 それふら10年奈良では、「良弁という名の小僧がおりました。良弁は、赤ん坊のとき、杉の木の上で泣いているところを義淵上人に助けられ、僧として育てられておりました。 良弁は、両親に持たせてもらった観音様のお守りを大事にし、早く両親に会えるようにと毎日お参りをして修業に励みました。 そしてきらに50年。良弁は大変偉いお坊さんになり、東大寺を創りました。一方、子どもを大鷲にきらわれた母親は我が子を探す旅を続けていましたが、80歳を超え、体も自由がきかなくなり、あきらめて志賀の里へ帰ろうとしていました。その道中、淀川の渡し船に乗ったときに、「奈良の都の良弁憎正は〜驚がきろうてきた子やそな〜」という船頭の歌が聞こえました。驚いた母は、なんとかして良弁憎正に会おうと、伏見の岸に舟が着いた途端、一目散に奈良へ向かいます⋯。 奈良では東大寺ができ、大仏が建てられてとても賑わっていました。そんな中、母は東大寺に来たものの、なかなか話すことが出来ず、通りすがりの実忠という僧に尋ねました。すると実忠は「金鐘」と書いた書を母親に渡しました。母親はこれを杉の木に貼り良弁が来るのを待っていました。そこに良弁がやってきて、張り紙に気づき話をすることができました。すると良弁が、「証の品を渡さなかったか」と聞くと、息子が生まれた日に夫が、木彫りの観音様を掘って渡した。と答えました。良弁は、それが自分の持っているものじゃないかと思い、母親に見せると60年前に見たものと同じだと気づき、2人は再会をしました。
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