二月革命から十月革命へ
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ソビエトは、1917年の二月革命の際に再び結成された。2月27日のペトログラード・労働者代表ソビエト設立会議では、メンシェヴィキのチヘイゼが議長として選ばれた。3月1日の総会では兵士の代表も加わり、労働者・兵士代表ソビエトとなった。この総会はペトログラード守備隊に対する「命令第一号」を決定した。これは「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴェトの命令と決定に反する場合をのぞいて履行すべきである」「一切の武器、小銃、機関銃、装甲車などは中隊、大隊委員会の管理と統制のもとにおかれ、要求があっても将校には決して引き渡してはならない」などといった内容を含んでおり、国家権力の一部を分有する姿勢を示すものだった。結果として臨時政府とソビエトの二重権力状態が生じた。 4月に帰国したレーニンは、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」(四月テーゼ)で、労働者代表ソヴィエトを「ただ一つ可能な革命政府の形態」と評価し、臨時政府打倒と全権力のソビエトへの移行を主張した。ソビエトはパリ・コミューンと同じ型の権力と評価された。 この型の基本的な標識はつぎのようなものである。(一)権力の源泉は、あらかじめ議会によって審議され承認された法律ではなくて、下からの、各地における人民大衆の直接の発意であり、流行の用語をつかっていえば、直接の「奪取」である。(二)人民からはなれ、人民に対立する機関としての警察と軍隊が、全人民の直接の武装に代えられる。こういう権力のもとで国家秩序を維持するのは、武装した労働者・農民それ自身、武装した人民それ自身である。(三)官吏・官僚も、これまた人民自身の直接の権力に代えられるか、すくなくとも特別の監督のもとにおかれ、人民に選出されるばかりか、人民が要求すればいつでも代えることができるものとなり、単なる代理人の地位に引きおろされる。彼らは、その「地位」にたいしてブルジョアなみの高給をもらう特権層ではなくなって、熟練労働者の普通の賃金をこえない俸給をもらう特別の「兵種」の労働者となる。 8月から9月にかけ、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワのソビエトで多数派の支持を獲得した。それを受けてレーニンはボリシェヴィキ内で武装蜂起による権力奪取を呼びかけた。ペトログラード・ソビエトの議長だったトロツキーはソビエトの軍事革命員会を率いて蜂起の準備を進め、10月25日の労働者・兵士ソビエト第二回全ロシア大会の直前に実行して権力を奪取した。
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