「全権力をソヴィエトへ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/29 04:15 UTC 版)
「四月テーゼ」の記事における「「全権力をソヴィエトへ」」の解説
「全権力をソヴィエトへ」というスローガンは、七月事件が敗北に終わったあと、一度取り下げられた。逮捕を避けて地下に潜ったレーニンは、匿名で発表された7月20日の論文「政治情勢」において、「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄して武装蜂起の準備を進めることを主張した。 全権力をソヴェトにうつせというスローガンは、革命を平和的に発展させるためのスローガンであって、この平和的な発展は、4月、5月、6月、7月5-9日まで、つまり実際の権力が軍事的独裁の手にうつるまでは可能であった。いまでは、このスローガンはもう正しくない。なぜなら、それは、このような権力の移行が行われ、エス・エルとメンシェヴィキが革命を実際に完全に裏切ったことを考慮にいれていないからである。役にたつことができるのは、〔……〕労働者の前衛が情勢をはっきりと意識し、堅忍不抜な、毅然たる態度をとることだけであり、武装蜂起の勢力を準備することだけである。 スターリンとスヴェルドロフが指導するボリシェヴィキの中央委員会は、「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを取り下げることには同意したものの、武装蜂起に関する提案は受け入れなかった。7月末から8月初めにかけて開かれたボリシェヴィキの第六回党大会は、「現時点で正しいスローガンは、反革命ブルジョアジーの独裁の完全な粉砕でしかありえない」とする決議「政治情勢について」を採択した。 8月のコルニーロフの反乱において、ソヴィエトは反乱を阻止するための組織として有効に機能し、その内部でボリシェヴィキへの支持が急上昇した。ペテルブルクとモスクワのソヴィエトにおいてボリシェヴィキは多数派となった。そこでレーニンは革命の平和的発展のスローガンとして「全権力をソヴィエトへ」を復活させ、同時に党内向けの文書において武装蜂起による権力奪取を主張しはじめた。 ボリシェヴィキの中央委員会は、レーニンが欠席した9月15日の会議では武装蜂起の提案に同意せず、決定を延期した。しかしレーニンが出席した10月10日と10月16日の会議で武装蜂起の方針を採択した。ただし、武装蜂起はレーニンの提案どおりにボリシェヴィキ単独で準備されたのではなく、トロツキーの主張に沿ってペトログラード・ソヴィエトの軍事革命委員会を中心に進められた。大勢が決した10月25日、軍事革命員会は「国家権力は、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトの機関の手にうつった」と宣言した。
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