「全日本美術家に諮る」
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敗戦後間もなく、柴田錬三郎が編集していた雑誌の依頼で表紙やカットを描いた。竣介は後に、風刺雑誌「VAN」にカットを描く仕事をしたが、この時の柴田との縁で依頼されたようである。1945年9月、郷里の友人が中学生のための通信教育の会社(育英社、1947年12月に解散)を設立したので、教材の制作や添削の仕事を始めた。同年、舟越保武と故郷の盛岡のデパートで二人展が開かれることになり、20点を仕上げて盛岡へ行く。知り合いが無理をして買ってくれたらしく、絵は存外に売れた。10月になると、戦争画論争が激しかった中、朝日新聞に「芸術家の良心」という一文を投稿した。この文章は不採用になったが、この中で、戦争画というテーマ自体は時代を超えた普遍性を持っていることを説いていた。 この頃、松本は麻生三郎や舟越保武と美術家組合の構想を練っており、二科の東郷青児や、行動美術の向井潤吉、美術文化協会の福沢一郎から会員になるよう誘いがあったが全て断った。翌1946年1月、「全日本美術家に諮る」と題して美術家組合の素案を印刷した冊子を、画家だけでなくその他の分野の著名人・知人へ送った。また、日本共産党への入党の勧誘もあったが、それは断った。 一方、当初は手伝う程度だった育英社の仕事だったものが、1946年2月1日からは毎日勤務するようになった。同年4月、息子の莞の入学式に間に合わせるためと家族の引き揚げの相談のために松江に出かけた。東京に戻ってからは、同年の11月に決まっている3人展のための制作に打ち込んだ。この頃から肋骨の痛みや喘息がひどくなり始める。 11月、銀座日動画廊で麻生・舟越との三人展を開き、20点の絵を出品する。この中には、4作目になる「Y市の橋」や「少年像」、風景画「落陽」「市内の橋」「 O {\displaystyle O} 工場地帯」が含まれていたが、最後の3作品は散逸した。 1947年正月には、家族を呼び戻した。この頃には、雑誌の表紙やカットの依頼が入るようになっていた。例えば、南北書園発行の書籍の装丁(小川未明の「僕の通るみち」や林芙美子「一粒の葡萄」、芹沢光治良「パリの揺籃」など)、「新岩手夫人」「生活者」などの雑誌の挿絵を描いていた。その後、麻生・鶴岡・井上らとともに、自由美術家協会に加入した。6月に、第1回美術団体連合展(毎日新聞主催)、7月に自由美術の展覧会、10月に岐阜で、麻生・舟越との三人展に出品した。岐阜での三人展の最中に、長女の洋子が尿毒症で亡くなった。12月に風邪をこじらせクルップ性肺炎にかかり体調を崩したが、翌年の正月には床上げした。
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