「全日本美術家に諮る」とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「全日本美術家に諮る」の意味・解説 

「全日本美術家に諮る」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 05:13 UTC 版)

松本竣介」の記事における「「全日本美術家に諮る」」の解説

敗戦後間もなく柴田錬三郎編集していた雑誌依頼表紙カット描いた。竣介は後に、風刺雑誌VAN」にカットを描く仕事をしたが、この時の柴田との縁で依頼されたようである。1945年9月郷里友人中学生のための通信教育会社(育英社、1947年12月解散)を設立したので、教材制作添削仕事始めた同年舟越保武故郷盛岡デパート二人展が開かれることになり、20点仕上げて盛岡へ行く。知り合いが無理をして買ってくれたらしく、絵は存外売れた10月になると、戦争画論争激しかった中、朝日新聞に「芸術家良心」という一文投稿した。この文章不採用になったが、この中で戦争画というテーマ自体時代超えた普遍性持っていることを説いていた。 この頃松本麻生三郎舟越保武美術家組合構想練っており、二科の東郷青児や、行動美術向井潤吉美術文化協会福沢一郎から会員になるよう誘いがあったが全て断った。翌1946年1月、「全日本美術家に諮る」と題して美術家組合素案印刷した冊子を、画家だけでなくその他の分野著名人知人送ったまた、日本共産党への入党勧誘もあったが、それは断った一方当初手伝程度だった育英社の仕事だったものが、1946年2月1日からは毎日勤務するようになった同年4月息子入学式間に合わせるためと家族引き揚げ相談のために松江に出かけた。東京戻ってからは、同年11月決まっている3人展のための制作打ち込んだこの頃から肋骨痛み喘息がひどくなり始める。 11月銀座日動画廊麻生・舟越との三人展を開き20点の絵を出品するこの中には、4作目になる「Y市」や「少年像」、風景画「落陽」市内」「 O {\displaystyle O} 工場地帯」が含まれていたが、最後の3作品散逸した1947年正月には、家族呼び戻したこの頃には、雑誌表紙カット依頼が入るようになっていた。例えば、南北書園発行書籍装丁(小川未明の「僕の通るみち」や林芙美子一粒の葡萄」、芹沢光治良パリ揺籃」など)、「新岩夫人」「生活者」などの雑誌挿絵描いていた。その後麻生鶴岡井上とともに自由美術家協会加入した6月に、第1回美術団体連合展(毎日新聞主催)、7月に自由美術の展覧会10月岐阜で、麻生・舟越との三人展に出品した岐阜での三人展の最中に、長女洋子尿毒症亡くなった12月風邪こじらせクルップ性肺炎にかかり体調崩したが、翌年正月には床上げした。

※この「「全日本美術家に諮る」」の解説は、「松本竣介」の解説の一部です。
「「全日本美術家に諮る」」を含む「松本竣介」の記事については、「松本竣介」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「全日本美術家に諮る」」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「全日本美術家に諮る」」の関連用語

「全日本美術家に諮る」のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「全日本美術家に諮る」のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの松本竣介 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS