「全米インディアン若者会議」の設立
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「クライド・ウォーリアー」の記事における「「全米インディアン若者会議」の設立」の解説
1961年、シカゴでインディアン全国団体「アメリカインディアン国民会議」(NCAI)が大会議を開き、合衆国のインディアン絶滅政策に対する対策が議論された。クライドは「SRIYC」メンバーとしてこの集会に参加していたが、合衆国の傀儡にすぎない部族会議議長たちによる、保守的な運動提示に対して失望し、反対意見を表明。「若者は声を挙げるべきだ」として独自に仲間を募った。 シカゴの会議の後、メル・トム(パイユート族)やハーブ・ブラッチフォード(ナバホ族)、シャーリー・ヒル・ウィット(モホーク族)、マリー・ナカニ(ウィンネバーゴ族)、ビビアン・ワンフェザー(ナバホ族)らインディアンの若い男女は自分たちを「シカゴ評議会の若者会議」と名乗り、その夏に、ニューメキシコ州のギャラップで「全米インディアン若者会議」(NIYC)を結成し、2000人から成る大組織に育てた。 「NIYC」は、インディアンに対する合衆国の不当な扱いや差別、「インディアン管理局」(BIA)の無能ぶりを白日に晒すため、「NCAI」が嫌った直接的な抗議運動を展開し、アメリカ白人社会の耳目を集めるようになった。1963年には、ワシントンD.C.で、インディアンの条約権利回復要求を掲げ、「NIYC」による抗議行進を決行した。 1960年代中期に、クライドは当時インディアン社会に強い影響を与えた『あなたはどれですか? 若いインディアンの5つのタイプ』と『我々には自由が無い』という二つのエッセイを著している。 晩年はアルコール使用障害に苦しみ、肝硬変で1968年7月に死去した。28歳だった。彼の碑銘には「新しいインディアンの理想主義の、新鮮な空気」と刻まれている。
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