「全部族インディアン」の結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/10/14 01:14 UTC 版)
「バーニー・ホワイトベアー」の記事における「「全部族インディアン」の結成」の解説
バーニーを始め、保留地から放逐された「アーバン・インディアン」の若者たちは、彼らが部族会議によって歪め伝えられているのを肌で感じていた。「全米インディアン若者会議」(NIYC)スポークスマンであり、ポンカ族の運動家クライド・ウォーリアーは、1967年の「地方の貧困に関する大統領査問委員会」で、次のような証言を行っている。 「我々には自由がない。我々には選択がない。我々の選択肢は我々のために作られているが我々は貧しい。保留地にたよって暮らす我々にとって、これらの選択と決定は連邦管理官と役人、そして彼らの『イエスマン』によってなされている。この『イエスマン』とは、婉曲的に『部族政府』と呼ばれている。」 この時期、シアトルに流入した「アーバン・インディアン」は4,000人に達していた。「BIA」(インディアン管理局)も「IHS」(インディアン医療サービス)も、都市で暮らす彼らに連邦条約の一切を認めず、何の援助も行わなかった。シアトルに住む多数の「アーバン・インディアン」は、「連邦の援助プログラムや資金提供が中部地域の黒人にばかり偏っている」と不満を高まらせていた。雇用改善のための「キナテチタピ」の運動は、何の成果もあげていなかった。数100万ドルの連邦資金はすべて市の中部地域に集中し、彼らは無視されていた。「シアトル・インディアン・センター」はあいも変わらず借家住まいで、運営資金は寄付に頼っていた。シアトル市人権局職員だったブレア・ポールは、なによりもインディアンたちの結束が公的援助要求のためには必要不可欠だと考え、これに賛同したのがバーニーだった。 この年の9月、バーニーは集会を開き、このとき初めて「アーバン・インディアンの結束」を呼び掛けた。バーニーは多民族間の交渉の中で、「インディアン」の民族名の独自性にこだわり、他の「アメリカ先住民」と総括され、「ネイティブ・アメリカン」と呼ばれることを嫌った。彼らは「アーバン・インディアン」であり、「全部族のインディアン」だった。シアトルやサンフランシスコの「インディアン・センター」を通じて集まった、バーニーやモホーク族のリチャード・オークス、サンテ・スー族のジョン・トルーデルらは、連邦の傀儡に過ぎない部族会議を見限って、部族を超えた個人の集まりとして「全部族インディアン」を名乗った。彼ら「全部族インディアン」達は、「フィッシュ=イン」とはまた違う方向で、なにかアピールできる方法が無いか模索し始めた。 この年秋、「サンフランシスコ・インディアン・センター」が火災で焼失。行き場を失ったサンフランシスコの「アーバン・インディアン」たちは、リチャード・オークスの提案によって、サンフランシスコ湾にあるアルカトラズ島の占拠を決定する。
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