新人画会とは? わかりやすく解説

新人画会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 05:13 UTC 版)

松本竣介」の記事における「新人画会」の解説

1943年春、池袋モンパルナスアトリエ長屋住んでいた井上長三郎訪ね絵画グループ結成相談をする。井上の他、靉光鶴岡政男糸園和三郎大野五郎寺田政明麻生三郎とともに「新人画会」を結成4月銀座7丁目の日本楽器2階にあった小さな画廊借りて第1回新人画会展を10日開き、竣介は「鉄橋付近」(1943年3月油彩カンヴァス、34.3×59.8cm、島根県立美術館)「運河風景」(1943年3月油彩カンヴァス、45.5×61.0cm、大川美術館寄託)など5点出品した。会の事務所は、竣介の自宅置かれた。当時は、展覧会と言えば戦争画というのが当たり前になっていたが、この展覧会では風景画人物画ばかりが出品された。このことから、太平洋戦争後の一時期、新人画会は、日本でただ1つレジスタンス画家集団評されたことがあった。しかし、麻生・糸園・井上・寺田らの文章インタビューによれば実際にそのような意図はなかった。 10月岩手翼賛文化報国会主催した戦意昂揚展に3点ポスター出品した11月には、第1回展と同様、日本楽器入っていた画廊第2回新人画会点を6日間開いた。この時何を出品したかは記録残っていないが、「並木道」が含まれていたのではないかとされている。 1944年(昭和19年)2月東京都美術館開かれた独立美術展覧会を見に行く。同じ月に、兄が働いていた巣鴨理研科学映画動画を描く仕事得た9月第3回新人画会展を資生堂画廊3日間開く。3号の板に描かれた「りんご」が出品されたことはわかっているが、その他にあったかどうかはわからない。この時から、名前を俊介から竣介へ改めようになった。これは父勝身の勧めよるものである。一方、同9月内閣情報局美術報国会主催または共催以外の展覧会禁止する決定下し以後、新人画会の展覧会開けなくなったまた、二科も解散したその後、新人画会は解散したが、それがいつのことなのか詳しいことはわからない唯一「全日本美術家に諮る」(次項参照)の中に解散したことを記す記述見られるのみである。 1945年(昭和20年)3月出産日を翌月控えた妻の禎子義母の恒、長男郷里松江疎開させたが、自身東京残った4月10日には長女洋子誕生した5月25日山の手地区空襲を受け下落合一帯焼け野原となったが、竣介の自宅周辺だけは被害免れた

※この「新人画会」の解説は、「松本竣介」の解説の一部です。
「新人画会」を含む「松本竣介」の記事については、「松本竣介」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「新人画会」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新人画会」の関連用語

新人画会のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新人画会のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの松本竣介 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS