新人画会
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1943年春、池袋モンパルナスのアトリエ長屋に住んでいた井上長三郎を訪ね、絵画グループ結成の相談をする。井上の他、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明、麻生三郎らとともに「新人画会」を結成、4月、銀座7丁目の日本楽器の2階にあった小さな画廊を借りて第1回新人画会展を10日間開き、竣介は「鉄橋付近」(1943年3月、油彩・カンヴァス、34.3×59.8cm、島根県立美術館蔵)「運河風景」(1943年3月、油彩・カンヴァス、45.5×61.0cm、大川美術館寄託)など5点を出品した。会の事務所は、竣介の自宅に置かれた。当時は、展覧会と言えば戦争画というのが当たり前になっていたが、この展覧会では風景画や人物画ばかりが出品された。このことから、太平洋戦争後の一時期、新人画会は、日本でただ1つのレジスタンス画家集団と評されたことがあった。しかし、麻生・糸園・井上・寺田らの文章やインタビューによれば、実際にはそのような意図はなかった。 10月、岩手の翼賛文化報国会が主催した戦意昂揚展に3点のポスターを出品した。11月には、第1回展と同様、日本楽器の入っていた画廊で第2回新人画会点を6日間開いた。この時何を出品したかは記録が残っていないが、「並木道」が含まれていたのではないかとされている。 1944年(昭和19年)2月、東京都美術館で開かれた独立美術の展覧会を見に行く。同じ月に、兄が働いていた巣鴨の理研科学映画で動画を描く仕事を得た。9月、第3回新人画会展を資生堂画廊で3日間開く。3号の板に描かれた「りんご」が出品されたことはわかっているが、その他にもあったかどうかはわからない。この時から、名前を俊介から竣介へ改めるようになった。これは父勝身の勧めによるものである。一方、同9月、内閣情報局は美術報国会の主催または共催以外の展覧会を禁止する決定を下し、以後、新人画会の展覧会は開けなくなった。また、二科も解散した。その後、新人画会は解散したが、それがいつのことなのか詳しいことはわからない。唯一「全日本美術家に諮る」(次項参照)の中に、解散したことを記す記述が見られるのみである。 1945年(昭和20年)3月、出産日を翌月に控えた妻の禎子と義母の恒、長男の莞を郷里の松江に疎開させたが、自身は東京に残った。4月10日には長女の洋子が誕生した。5月25日、山の手地区が空襲を受け下落合一帯も焼け野原となったが、竣介の自宅周辺だけは被害を免れた。
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