ハリコフ攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:13 UTC 版)
南翼への攻勢を阻止したマンシュタインは北翼への攻勢に備え、中央軍集団にたいし2個装甲師団の返還を求め、南翼に移動した第3装甲軍団を北翼に戻した。マンシュタインの予測通りソ連軍の攻勢部隊は7月24日にベロゴルド北方に集結、攻勢準備を整えていた。8月3日、ヴォロネジ・ステップ軍110万の攻勢部隊が攻撃を開始。ヴォロネジ方面軍の第5軍と第6親衛軍が突破口を開き、第1戦車軍と第5親衛戦車軍が突破口を拡大し後方へと進出した。8月5日にはベロゴルドが解放され、第五親衛戦車軍が西から、第53軍が南西から、第7親衛軍が北から、第57軍が南からハリコフへと殺到した。8月7日、ボゴドゥコフとグライボロンが陥落し、第4装甲軍の第19機甲師団と歩兵3個師団が孤立した。孤立した4個師団はグライボロンへと退却したが、森林地帯で待ち伏せていた第27軍の奇襲を受け全滅した。ソ連軍機械化部隊は攻勢開始から5日で100Kmも進撃し、急速に戦果を拡大した。すでに第4装甲軍と第8軍は分断され55Kmの間隙が生じていた。ヒトラーはハリコフの死守を命じ、6個歩兵師団をハリコフ市内に配置した。マンシュタインはミウス戦線から呼び戻した第3装甲師団をハリコフの北に配置し、第2SS装甲軍団を第4装甲軍に加え、ハリコフに肉薄するソ連軍に反撃した。第1戦車軍と第6親衛軍の左翼に猛攻をかけて押し返し、増援として駆け付けた第5親衛戦車軍とSS装甲軍団が衝突した。両軍は大損害をうけたがドイツ軍はかろうじてソ連軍を撃退しハリコフを維持した。
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