攻勢頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 02:14 UTC 版)
長禄2年(1458年)、政知は伊豆国堀越に留まる(堀越公方)。8月には古河公方足利成氏側の武将・岩松持国が幕府側へ寝返っているが、下向前の3月に政知が帰服を求める御教書を送っており、義鏡が副状を添えている。この頃から義鏡は政知の執事となっていた。それでも堀越府は軍事力不足の為、幕府は成氏討伐の為に斯波義敏に関東出陣を命じている。また、義鏡は渋川一族の動員を認められ、義俊の同母弟(義鏡には叔父)とされる渋川俊詮は翌長禄3年(1459年)に武蔵国浅草で病死している。 しかし、義敏は執事の甲斐常治と対立、長禄合戦を引き起こした。これより前、義政は両者を和解させたが対立は収まらず、合戦になったのである。義敏は11月の再出陣命令に従うが、長禄3年5月に軍を越前国に向けて甲斐派の金ヶ崎城を攻めて逆に大敗した。激怒した義政は義敏を廃嫡し、僅か3歳の息子の松王丸を次の当主に置いた。斯波氏不在の関東の幕府軍は10月に前線基地の五十子陣付近の太田庄で古河公方と戦ったが敗北、成氏討伐は失敗した(五十子の戦い)。この間、義敏は周防国の大内教弘の元へ逃れた。また、甲斐常治も8月に死去している。
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