長禄合戦
長禄合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 10:15 UTC 版)
甲斐常治は将軍足利義政の不知行地還付政策を支持しており、越前など分国の経営にあたっては幕府や武衛家重臣朝倉孝景などの支持を得ていた。義敏は常治の専横を幕府に訴えたが、長禄元年(1457年)に甲斐氏・朝倉氏・織田氏ら重臣と戦って敗れ、東山東光寺に篭居する羽目となった。 長禄2年(1458年)2月、将軍や管領細川勝元の仲裁によって両者はひとまず和解し、義敏は自邸に戻った。ところが越前では義敏派の国人堀江利真と甲斐派の朝倉孝景・甲斐敏光(常治の息子)らが衝突、7月頃に長禄合戦へと発展した。緒戦は堀江利真の率いる義敏派が連戦連勝して戦局を有利に展開したが、不知行地還付政策に基づく寺社の荘園直接支配推進を利真が拒絶したため幕府の態度は硬化し、朝倉らの支持に傾いた。この頃、将軍義政の異母兄である堀越公方足利政知の関東経略に進展が見られないことから、その救援のため、9月に義敏および常治が関東への出兵が命じられた。だが両者は互いに警戒して動かず、長禄3年(1459年)1月には越前の義敏派と甲斐派の衝突が再燃した。義政から再三にわたる関東出兵命令を受けた義敏は、5月に兵を集めたものの関東には赴かず、甲斐方の金ヶ崎城や敦賀を攻めて逆に敗れた。義政の怒りを買った義敏は、息子の松王丸(義寛)に家督を譲らされ、周防の大内教弘の元へ追放された。8月には堀江利真も越前に侵攻した朝倉孝景に討たれ、甲斐派が合戦に勝利した。もっとも甲斐常治自身はその間京都で病床に臥せっていたのであり、勝利の直後に病死している。
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長禄合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 15:01 UTC 版)
享徳元年(1452年)、斯波義健がわずか18歳で亡くなると、斯波氏の正統が絶えたため、甲斐氏・織田氏・朝倉氏の斯波氏重臣は、斯波氏庶流の持種の子義敏を斯波氏当主として迎えるが、上記の通り、常治と持種が犬猿の仲であったため、常治が義敏と対立するのにそう時間はかからなかった。 対立の原因は他にもあり、甲斐氏は守護権を活用して大犯三箇条の検断権、刈田狼藉の検断権、使節遵行権、守護請等で領国内で勢力を拡大、在地武士達との結びつきを強めていく。対して、甲斐氏によって土地から追われたり、荘園代官職を奪われた他の斯波氏被官人達は義敏を頼り、義敏も彼らとの繋がりで領国支配を展開、常治の排斥を狙ったため、幕府の仲介も意味を成さず、対立は深まっていった。幕府が守護の支配を制限する不知行地還付政策を常治が支持したことも義敏派の不満に繋がった。 長禄2年(1458年)6月に常治が病気になると、義敏はこの機をとらえて挙兵し、守護斯波義敏(越前国人衆)と守護代甲斐常治側が激突、長禄合戦が勃発した。ただ、義敏本人は幕府から関東出兵を命ぜられて近江小野に滞在しており、常治も京都で病床にあったため、越前での合戦は守護側の堀江利真と守護代側の朝倉孝景・甲斐敏光による代理戦争の様相を呈していた。 当初、守護側は堀江利真の活躍により優勢であったが、長禄3年(1459年)になると、8代将軍足利義政は常治に肩入れするようになり、義敏本人が関東出兵の命令に背いて甲斐方の金ヶ崎城を攻めて大敗すると、これに激怒して義敏から家督を奪って周防に追放し、義敏の息子松王丸がわずか3歳で斯波氏の当主となった。幕府の常治寄りの姿勢や朝倉孝景の活躍もあって、長禄3年8月11日、長禄合戦は守護代側の勝利となるが、常治本人はその知らせを聞かないまま翌12日夜、京都で死亡した。守護代職は敏光が越前に出兵中のために、孫の千喜久丸に継承された。
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