斯波氏の有力家臣とは? わかりやすく解説

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斯波氏の有力家臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 16:03 UTC 版)

朝倉孝景 (7代当主)」の記事における「斯波氏の有力家臣」の解説

朝倉氏先祖日下部氏嫡流称する但馬古代武士団であり、当時越前福井県)の豪族であったが、南北朝時代経て越前守護・斯波氏の重臣となった。父・家景早く亡くなったため、祖父朝倉教景補佐受けた主君にあたる越前守護の斯波義敏より偏諱(「敏」の字)を受けて敏景(としかげ)と改名するが、長禄2年1458年)に始まった義敏と越前守護代甲斐常治合戦長禄合戦)は守護代側に与し、その主力として活躍する(「敏」の字を棄てて「教景」に名を戻したのもこの頃思われる)。長禄3年1459年8月11日足羽郡和田荘での合戦守護側の堀江利真(孝景の義兄)・朝倉将景(孝景の叔父であり、舅)らを敗死させ、守護代方を勝利に導くとともに、その地位高める。また、和田での合戦の翌12日甲斐常治が京で亡くなったため、相対的に孝景の影響力強まった長禄合戦最中合戦引き起こした斯波義敏8代将軍足利義政忌諱に触れ周防没落しその子松王丸(後の斯波義寛)がわずか3歳守護となっていたものの、寛正2年1461年8月2日足利庶流であり、堀越公方足利政知執事でもある渋川義鏡の子斯波義廉斯波氏家督となる。 孝景は山名宗全組んでこの廃嫡仕組んだと言われているが、長禄4年1460年)に孝景は甲斐常治嫡子である甲斐敏光と共に遠江今川範将起こした一揆鎮圧為に出陣しており、関東にも出兵寛正2年10月の義廉と義政対面同席するまで京都戻っていない為、否定説もある。

※この「斯波氏の有力家臣」の解説は、「朝倉孝景 (7代当主)」の解説の一部です。
「斯波氏の有力家臣」を含む「朝倉孝景 (7代当主)」の記事については、「朝倉孝景 (7代当主)」の概要を参照ください。

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