斯波氏の重臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:27 UTC 版)
元弘3年(1333年)、建武の新政において足利高経(斯波高経)が越前国の守護に補任されて以降、越前守護職は斯波氏が世襲していくこととなり、越前の国人であった織田氏も暫時その被官層に組み込まれていったと考えられる。 後に斯波氏は応永7年(1400年)に尾張守護を、応永12年(1405年)に遠江守護をそれぞれ加えられると、斯波氏の筆頭家臣であった執事の甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任し、織田氏は尾張守護代を世襲するようになった。織田氏の最初の守護代は織田将広の子の織田常松(織田教広)であるとされ、この頃より織田一族は越前から尾張へ移住していったものと見られる。斯波家中においては、将軍直臣扱いで室町将軍の御成を受ける程の家格を誇った甲斐氏に次ぐ序列二位であり、宝徳3年(1451年)、織田郷広を8代将軍足利義政自らが赦免して尾張守護代へ復帰させようとした問題は、義政の母日野重子が出奔して抗議する程の事件となった。 尾張守護代を世襲した織田氏惣領家は代々伊勢守を称したため伊勢守家と呼ばれ、主君である斯波氏とともに在京生活を送って中央政界での権力闘争に終始し、尾張には在国の又守護代(守護又代とも)として、代々大和守を称する一族(大和守家)を配置して統治を行っていた[要出典]。 なお、室町将軍のブレーンであった醍醐寺座主・満済の日記(『満済准后日記』)によれば、正長元年(1428年)8月6日、織田常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、満済が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、これが織田弾正忠家(後述、織田信長の家系)の史料上の初出と見られている。
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