義廉の斯波氏相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 02:14 UTC 版)
寛正元年(1460年)正月、幕府側の大名・今川範忠が駿河国に帰国、4月には堀越陣所の国清寺が古河公方側に焼き討ちされた為、政知は陣所を堀越御所に移した。範忠の帰国は、長禄合戦の影響で前年に遠江国で戦乱が起こり、範忠の一族の今川範将が遠江に侵攻した事が関わっていると言われる。斯波氏も遠江へ鎮圧の為に甲斐敏光と朝倉孝景が出兵し、関東にも出陣した。この機に乗じて政知は斯波軍を利用して鎌倉に入ろうとして、8月に義政に制止されている。 しかし、関東から使者が上洛し、堀越府は尚も戦力不足であり、更なる軍勢動員が必要と訴えている。寛正2年(1461年)に松王丸が廃嫡されて代わりに義鏡の息子・義廉が斯波氏を継承した事は、義政が堀越府の要望に応えた結果だと言われる。
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