義広の子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 01:01 UTC 版)
尾張藩家臣の荒川家は義広の子孫といわれる。「士林泝洄」巻37「荒川」には、義広の子として次の3名が掲げられている。 次郎九郎弘綱 - 徳川家康に召し出されて3000石を与えられ、その命により穴山梅雪の娘を娶り、その家督を継いだ。嗣子なく、そのため松平定綱を養子とした。慶長4年伏見において没したが(「寛政譜」新訂1巻「久松松平」299項)、その後、定綱は松平に復したため絶家となる。 平右衛門家儀 - 弘綱と同じく召し出されて1500石を与えられ、松平忠吉に付属せられる。慶長5年(1600年)武蔵国・忍城下において没した。その子・三郎九郎弘秋は徳川義直に仕え、子孫は尾張藩士となっている。 木崎殿 - 松平親能室。親能との間に酒井忠勝正室、筒井主殿助室、松平主水助(早世)をもうける。
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