久米義広の子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 04:40 UTC 版)
『三好記』によると、細川持隆の妹は赤松氏に嫁いでおり、鑓場の戦いの後、久米義広の遺児は赤松氏を頼って播磨国の赤松館へと落ちのびた。『昔阿波物語』によると、阿波屋形の女婿は赤松晴政である。 また、『蜂須賀家記』では、義広の子・義昌が播磨国の赤松則房を頼った。後に阿波国に戻って蜂須賀正勝の家臣となり、天正13年(1585年)の四国攻めで、当時は長宗我部方だった一宮城の攻略に参加し、断水による水攻めを進言したとしている。
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