義心強き武将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 07:05 UTC 版)
筑後守護大友氏の幕下にあった城持ち大名分の在地領主で、兵法に長けた武将として、筑前国、肥前国など各地に転戦する。 『西国盛衰記』によれば、父鑑久は将軍の供をするという役目を怠って討伐されたとされ、鑑久の死(天文12年(1543年))に伴って下蒲池蒲池氏の家督を継いだものと思われる。父を大友氏によって喪った鑑盛だが、主君を恨むことなく引き続き大友義鑑・義鎮(宗麟)の二代に亘って臣従した。 また、戦の場以外では、大友氏の敵方であるはずの龍造寺家兼やその曾孫である隆信が家臣団の反乱に遭って追われたときは、これを匿って手厚く保護し、その復帰にも協力した。『肥陽軍記』には「ここに筑後国蒲池鑑盛と云う人は下筑後にて威をふるい武勇のほまれ有り和歌管弦にも長じた情ふかい人なり」と記されているが、鑑盛は「義心は鉄のごとし」と言われるほど義に厚い人柄であったとされている。龍造寺家兼を保護したのち、隆信が肥前を追われた際には隆信をかつて家兼も住んだ蒲池領内の三潴郡一木村(大川市)に住まわせ、三百石を扶持し、家臣の原野恵俊に面倒を見させた。また隆信が佐嘉に帰還する際は、蒲池氏の精兵三百で隆信を護衛させ、結果、隆信は本拠地佐嘉城の奪還に成功することになる。この鑑盛による二代に渡る保護がなければ、龍造寺氏は滅びていた可能性があり、その後の龍造寺隆信の興隆もあり得なかったことになる。 鑑盛は、大内氏に代って中国地方を制圧し、九州への侵攻を開始した毛利元就と大友宗麟との間の門司城をめぐる戦い(門司城の戦い)や、永禄10年(1567年)、元就に加担して大友氏に反旗を翻した高橋鑑種の討伐戦などに出陣している。かつて保護した龍造寺隆信の興隆の発端となった元亀元年(1570年)の今山の戦いに於いても蒲池鑑盛は田尻親種と共に、宗麟からの命を受けて数十隻の兵船で筑後川を渡り、龍造寺氏の村中城を包囲し攻略戦を行った。これらの合戦への参加により、宗麟からの感状を幾度も受けている。
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