長禄の変と赤松家の再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 10:10 UTC 版)
嘉吉の乱以後、旧赤松領は山名氏の領国となり赤松家の旧臣は排除され、または浪人となり討伐の対象とされることもあった。このため、赤松家旧臣の多くは主家再興を悲願としていた。 赤松家の旧臣・上月満吉は康正2年(1456年)に吉野に入り、神璽に関する情報収集に務めた。これは後南朝に奪われた神璽奪還のためであり、これは「御屋形様(政則)」と「勅諚」「上意」との約束だったという(『上月文書』)。調査には1年の月日がかかり、長禄元年(1457年)12月に赤松家旧臣らは奥吉野に侵入し、南朝後胤とされる一の宮、二の宮を殺害した。二の宮を殺害したのが満吉である。この時に神璽も奪還した(一時的に吉野の郷民に奪われたが、再度奪回している)。この結果、長禄2年(1458年)8月に神璽は京都に戻り、その功績により赤松家の再興が幕府から認められることになった(長禄の変)。 幕府が赤松家の再興を認めた背景には、長禄の変における功績の他に山名氏に対する政治背景があったとされる。嘉吉の乱で旧赤松領を分国とした山名氏の勢力は幕府を脅かすほど強大化していたため、赤松家を再興することで山名氏の牽制に当てる狙いがあったとされている。また赤松家再興と所領の付与には細川勝元が積極的に関与していることも確認されており(『蔭凉軒日録』)、赤松家を取り立てることで山名宗全に対抗する政治的意図があったとされている。 赤松政則には幕府から勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘、伊勢高宮保が与えられた。代わりに北半国の守護だった富樫成春は追放されている。
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