攻囲戦とパリの革命化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:10 UTC 版)
「パリ・コミューン」の記事における「攻囲戦とパリの革命化」の解説
11日、各区4名ずつの監視委からなる「パリ二十区共和主義中央委員会(以下、パリ中央委と略称)」が発足している。亡命先のベルギーから帰国したヴァルランを加えたパリ中央委は『第一回の赤いポスター』というスローガンを発表した。国家警察の解体、市の行政官の公選、言論・集会の自由、国防必需品の徴発、配給制の確立、全市民の武装が提案された。パリ中央委とインター派は挙国一致による徹底抗戦を呼びかけて抵抗を開始したが、1870年9月19日から翌71年にかけての132日間、パリはプロイセン軍によって包囲されることとなる。 「en:Siege of Paris (1870–71)」も参照 ちなみに、この間、南部の諸都市リヨンやマルセイユでは国防体制を強化するために「南仏連盟」が結成されたが、臨時政府の影響圏から離脱して地方革命政権として自立し始めていた。一方、リヨンではミハイル・バクーニンが絹布職人の支持を背景に蜂起して市庁舎を占拠したが、バクーニンは軍に包囲されあっさり逮捕されてしまった。バクーニンは釈放された後、すぐにフランスを離れて亡命した。マルセイユでは革命が成功してマルセイユ・コミューンが中心となる革命派政権が一時成立した。マルセイユ・コミューンは市会選挙でのブルジョアの巻き返しで崩壊したが、パリの革命派に強い印象を与えた。 「ミハイル・バクーニン」も参照 このような混乱の最中、パリでは国民衛兵が緊急招集されて9万人の市民が軍の隊列に加わっていった。将校は選挙され総出撃による撃退を主張するオーギュスト・ブランキやギュスターブ・フルーランス(英語版)、インター派のリーダーとなったウジェーヌ・ヴァルラン(英語版)などの血気溢れる革命家たちが大隊長に選出された。しかし、仮政府は表向きは徹底抗戦を主張していたが、実際には国防に対する関心を既に喪失しており、ジュール・ファーブルはプロイセンと停戦していかに武装した革命勢力を解散させるかの道筋を探るようになっていた。 こうした中、20日、シュートー、シャトラン、そして彼らの同士からなるパリ中央委は降伏を拒否して徹底抗戦を主張するとともに、「パリ中央委は全20区の民主的社会主義者の力を集中する目的を持つ」とする規約を採択し、臨時政府との対決姿勢を強めた。パリ中央委は早くも市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議を採択するなど妥協的な仮政府と敵対するようになった。一方、仮政府は憲法制定会議の招集、コミューン選挙の延期を発表するなど朝令暮改を繰り返し、またフルーランスの要求を拒んで辞任もやむなしの状況へと追い込んだ他、ブランキをリコールするなど革新派大隊長を次々と更迭して抗戦派の勢いを削ごうと図り、この動きのゆえに仮政府とパリ民衆との離反を決定的なものとなった。
※この「攻囲戦とパリの革命化」の解説は、「パリ・コミューン」の解説の一部です。
「攻囲戦とパリの革命化」を含む「パリ・コミューン」の記事については、「パリ・コミューン」の概要を参照ください。
- 攻囲戦とパリの革命化のページへのリンク