攻囲戦に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 13:50 UTC 版)
「ボン攻囲戦 (1689年)」の記事における「攻囲戦に至る経緯」の解説
ラインラントの大部分は、間もなくフランス軍が占領するか、フュルステンベルク伯が募集した軍が掌握した。一方、帝国都市ケルン、コブレンツとエーレンブライトシュタイン要塞(英語版)の占領は成功しなかった。神聖ローマ帝国による帝国戦争(英語版)の宣言と、ルイ14世の軍に対抗するべくネーデルラント、イングランド、スペイン各国との同盟が締結された後、ドイツでは大規模な3個の軍団が編成された。バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルが率いる一つ目はフランケンとシュヴァーベンの防衛にあたり、二つ目はロレーヌ公シャルル5世の指揮下にマインツ要塞(英語版)を奪還することとなった。ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世率いる三つ目の軍団は、クレーフェ公領に集結した。26,000名を擁するブランデンブルク=プロイセン軍の他にリューネブルク、ミュンスター(英語版)とネーデルラントの軍が加わる。ブランデンブルク軍には、フランスから追放されたユグノーもいた。ブランデンブルク選帝侯が不在の折、ハンス・アーダム・フォン・シューニンク(ドイツ語版)中将がクレーフェ一帯の軍司令官に任じられる。 目的は、フランス軍に占領された大司教座都市ケルンの奪還にあった。元来、中世に由来する市壁に囲まれた町であるボンは、ケルン戦争(英語版)の戦訓によって早くも1622年以降、近代的な要塞施設(ドイツ語版)と稜堡で強化されていた。ボイエル(ドイツ語版)区の方にある大きなスカンス(英語版)が町の東方を守っている。1673年、オランダ戦争の一環として初めてボンが攻囲された折、塁壁はすでに一度、激しい砲撃を受けていた。そのため1688年の初めから改めて要塞の補強がはじまり、その作業は直後の攻囲戦まで続けられた。 1688年9月10日、フランス軍の歩兵14個大隊、騎兵6個連隊並びに竜騎兵3個連隊がボンを確保するべく、町へ入城した。総勢7,000名が宿営し、守備隊を増強したのである。工事に適した物は何であれ没収され、市内の教会の回廊は厩舎に転用された。 1688年10月、恐らく1672年から1673年にかけて建設されたボイエル区のスカンスを撤去し、広範な橋頭堡に建て替える工事が始まった 。1688年12月には限定的に防衛の準備が整ったが、砦の完成には1689年の5月までかかっている。 ボンの市内でも同様に、10月から北側の三つの稜堡がヴォ―バンの様式に従って完全に新しく建設された。このため、町から逃亡した市民の家屋が木材の不足によって憚ることなく解体され、その梁を再利用されている。こうしてボンには1689年4月までに合計10か所の大きな稜堡が補強・新築されたものの、作業は敵軍が初めて進撃してきた時には全く終わっていなかった。北側の堀は深さが足らず、壁も高さが不足しており、至る所で市壁の盛土がまだ行われていたのである。 1689年4月21日、ボンに配備されたフランス軍の部隊はボン周辺の全ての城館や家屋を破却し、巨大な斜堤を造り始めた。爆破隊がクロイツベルクの教会(ドイツ語版)、グーデナウ(ドイツ語版)やアーデンドルフ(英語版)の城館を取り壊す。アンダーナッハとアールヴァイラー(ドイツ語版)は破壊された。5月にはズィークブルク、モンドルフ(ドイツ語版)とガイスティンゲン(ドイツ語版)が焼き払われる。オーバーカッセル(英語版)、ニーダードレンドルフ(ドイツ語版)とケーニヒスヴィンター(英語版)は破却された。レンドルフ(ドイツ語版)、ホンネフ(英語版)も取り壊される。一方、連合軍はボンの周辺地域を荒廃させつつ進み、各村で略奪、破壊行為や放火を働き、農民から全ての家畜を徴発し、彼らを飢餓の危険に晒した。
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