ケルン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:43 UTC 版)
アウクスブルクの和議は幾人かの改宗司教が彼らの教区を放棄することを拒み、加えてスペインと神聖ローマ帝国におけるハプスブルク家及び他のカトリック君主達がこの地域にカトリックを復活させようと図ったために崩れ始めた。1570年代初めになるとカトリック側がイエズス会を支柱とした宗教改革への本格的な反撃を開始し、新旧教対立は深刻化した。バイエルンではアルブレヒト5世によって新教派は潰滅し、1574年にはマインツ大司教も反宗教改革に乗り出した。イエズス会は大学教授に就職して教会再建のために後進を育成し、また帝国の司法もカトリックに支配された。 1577年、ケルン大司教領主のゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク(ドイツ語版)がカルヴァン派に改宗してアグネス・フォン・マンスフェルト=アイスレーベンと結婚すると言い出した。教皇はアウクスブルク宗教平和令の聖職者にかんする留保への侵犯であるとしてゲプハルトを罷免し、後任にバイエルン公子エルンスト(ドイツ語版、英語版)(バイエルン公ヴィルヘルム5世の弟)がすえられた(ケルン戦争(英語版))。このときプロテスタント諸侯は傍観していたが、反宗教改革が聖俗諸領邦へと押し寄せたことによって宗教対立が高まっていった。 ルター派はプファルツ選帝侯領(1560年)、ナッサウ(1578年)、ヘッセン=カッセル(1603年)、そしてブランデンブルク(1613年)といった諸侯のカルヴァン派への離脱をも目にさせられた。 このため、17世紀初めにはラインラントとドナウ川南方はカトリックになり、ルター派は北部において優勢で、カルヴァン派は中西部、スイス、ネーデルラントなど他の地域で優勢となった。しかし、いずれの地域にも少数派はおり、幾つかの領地や都市ではカルヴァン派、カトリックそしてルター派はほぼ均衡していた。 一方、ルター派のスウェーデンとデンマークは帝国内のプロテスタントを援助して政治的経済的影響力を得ようと考えていた。
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