ケルン市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 16:50 UTC 版)
「コンラート・アデナウアー」の記事における「ケルン市長」の解説
中央党の政治家として1917年から1933年までケルン市長を務める。就任当時は41歳で、当時のドイツの大都市では最も若い市長だった。1918年、プロイセン枢密院終身議員に選出されるが、11月の第一次世界大戦の敗北でその称号は有名無実のものとなった。敗戦直後の混乱期、中央党はラインラント地方の分離運動を展開したためアデナウアーもその一味として攻撃に遭う。1922年から1933年にはプロイセン枢密院議長を務める。ヴァイマール共和国時代には何度か首相候補として取りざたされたが、アデナウアーはケルン市長の座に満足しており、固辞していた。ケルン市長としては、戦後の混乱期に食糧確保の指導、古い城壁を破壊と緑地化、ケルン大学の再建、フォードやシトロエンなど外国企業の誘致、メッセやドイツ初のアウトバーンの建設など多くの政策を実行し、ケルンを国内一の産業都市にまで育て上げた。 アデナウアーは国家社会主義ドイツ労働者党に否定的であり、1931年には無断で橋に党旗を掲げたナチ党員に旗の撤去を命じる事件も起こっている。しかし、1933年にナチスは政権を掌握した際、アデナウアーはケルンを訪問したヒトラーとの握手を拒否したため、ケルン市長とプロイセン枢密院議長の座を追われた。
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