1927年 - 1937年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 05:25 UTC 版)
「ニュルブルクリンク」の記事における「1927年 - 1937年」の解説
1900年代ドイツでは自動車開発が盛んになっていたが、研究開発やレースのための常設コースは存在しなかった。1904年に国際レースであるゴードン・ベネット・カップがバート・ホンブルクで行われ大成功を収めるなど、モータースポーツ人気が高まったが、公道でのレースによるドライバーや観客の安全性の問題が浮き彫りとなり、独立したサーキットの必要性が叫ばれることとなった。人口が少なく、起伏に富む山岳地帯であるアイフェル地方にサーキットを建設する案が浮上するものの、モータースポーツ人気は急速に低下し、その後第一次世界大戦が勃発することになり、計画は白紙となった。 1920年代はじめ、ADACアイフェル・レンネン(アイフェル・レース)がアイフェル地方で公道を使用して行われていたが、レースを行うには危険で適切な場所ではなかった。アイフェル地方議会の議員であったDr Otto Creutzが、ADACの支持を得て専用のサーキットの建設を提案、アイフェル地方の失業者対策や、自動車会社にテストコースとして提供すること、観光客を呼び込むことも盛り込まれていた。当時ケルン市長であったコンラート・アデナウアーの賛同も得て政府の支援も取り付け1925年に建設が開始された。サーキットデザインはGustav Eichlerの主導により行われた。当時の重要なレースの一つであったタルガ・フローリオのコースを参考にしている。 1927年にオープン。コース全長が28.265kmで、コーナー数が174あり、コース幅は平均8mから9mであった。このGesamtstrecke(全コース)以外に、22.8kmの北コース(独:Nordschleife、ノルトシュライフェ )、全長7.7kmの南コース(独:Südschleife、ズュトシュライフェ)、全長2.281kmのZielschleife(別名Betonschleife)という3つのレイアウトで使用された。Start und Ziel(スタート/フィニッシュエリア)は共通となっており、Zielschleifeは主にウォームアップ走行などで使用されていた。 オープンよりすぐにアイフェル・レンネンやドイツグランプリ、世界選手権自転車競技大会を開催。夕方や週末には一方通行の有料道路として一般開放された。 1931年のドイツグランプリより北コースのみを使用して開催するようになった。全長28kmのフルコースを使用した大きなレースは1939年が最後となっており、フルコースの最速タイムはルイ・シロンのブガッティによるものであった。短くより安全な南コースはマイナーイベントや二輪レースで使用された。当初の名称はNürburg-Ringであったが、1933年にナチスがドイツのモータースポーツ全体に資金援助を行なって改修され、このときに名前からハイフンが取られNürburgringとなった。
※この「1927年 - 1937年」の解説は、「ニュルブルクリンク」の解説の一部です。
「1927年 - 1937年」を含む「ニュルブルクリンク」の記事については、「ニュルブルクリンク」の概要を参照ください。
- 1927年 - 1937年のページへのリンク