自動車開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 13:55 UTC 版)
戦後自動車製造に挑戦したメーカーは多くあったが、戦前からの自動車メーカーであったトヨタ自動車や日産自動車でさえも独自開発が難しく、海外メーカーの模倣やライセンス生産で凌いだり、軍需産業の中心だった旧三菱重工業の分社(=三菱自動車工業の前身)ですら技術提携による外国車のノックダウン生産をしていた。その時代において、中島飛行機を前身ないし源流とする富士重工業とプリンス自動車工業の2社のみが技術提携に頼らず自力開発を行う素地を有していた。 とは言え、富士精密工業がたま自動車=プリンス自動車工業の発注で最初に設計・製造した自動車用エンジンも、最初から飛行機時代の技術を駆使してスムーズに設計出来たわけではなく、富士精密とたま両社の社主となった石橋正二郎が所有するフランス製プジョー・202のエンジンをスケールアップしたものであった。排気量が大きくなるなど、プジョーのエンジンの完全なコピーにはならなかったものの、中島飛行機出身で富士精密専務の新山春雄は、「各部分の設計には意味があるのだから、模倣するならば、色気を出して余計な手を加えず、徹底的に模倣しろ」と指示していたほどであった。このエンジンFG4A型は、1952年=昭和27年発表のプリンス・セダンに最初に使われ、逐次改良されつつ、日産との合併後の1968年=昭和43年まで、スカイライン等のプリンス系車両に使用された。また、同じく中島飛行機系である富士重工最初の試作乗用車スバル1500に当初使われたエンジンは、まさにこの富士精密製のエンジンFG4A型であった(但し、このエンジン供給はたまの知るところとなって問題化し、富士重工は自社製エンジンに切り換える事となった。富士精密は、旧立川飛行機系のたまよりも、同じ中島系の富士重工に親しみを感じていたとの事である)。
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