ゴードン・ベネット・カップ(1903年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「ゴードン・ベネット・カップ(1903年)」の解説
「ゴードン・ベネット・カップ (自動車レース)」も参照 19世紀末の初期の自動車レースは規則らしい規則もなく無秩序に開催されていたが、自動車メーカーの参加や国境をまたいだ参加が常態化していくにつれて、競技規則の整備が急務となる。そこで、フランス在住の富豪ジェイムズ・ゴードン・ベネット・ジュニア(英語版)とフランス自動車クラブ(ACF)が協力して規則を策定し、1900年に国別対抗の自動車レースであるゴードン・ベネット・カップを初開催した。 ドイツ勢は初年度こそベンツがエントリーしたものの、その後の2大会はどのメーカーも興味を示さず、ダイムラーは1903年の第4回大会(英語版)で初めて出場した。 この大会に出場するため、ダイムラーは90馬力に強化したメルセデス・シンプレックスを用意して7月2日のレース開催日に備えた。ところが、6月9日深夜、カンシュタット(英語版)にあるダイムラー本社工場で火災が発生し、レース用に用意していた5台の車両を全て焼失する不幸に見舞われる。市販用に在庫していた90台も全て焼失してしまった上、工場が全焼したことで生産設備も失い、レースに間に合うよう再製造することも不可能となった。しかし、ダイムラーはレース参戦を諦めず、顧客から借用するなどして60馬力のシンプレックス3台をなんとか用意し、突貫工事でレース仕様に改造してレースに間に合わせた。 車両は開催地のイギリス・アイルランド島に送られ、荒れた道路で530㎞に及ぶレースに挑むことになり、3台のメルセデスの内、2台はリタイアとなる。一方、残った1台を駆るベルギー人カミーユ・ジェナッツィは、ライバルより馬力で劣る車両にもかかわらず、数々のカーブを巧みなスロットル制御で高速でクリアする離れ業を見せ、2位以下に大差をつけて優勝した。 ダイムラーとドイツ車にとってこれは国際的な自動車レースにおける初めての優勝となり、メルセデスの名声はこの勝利で確固たるものとなった。この勝利による宣伝効果は絶大なもので、ダイムラーには500万ドル相当のメルセデスの注文が寄せられた ダイムラーは全焼した工場に代わる新たな本社工場をカンシュタットに隣接するシュトゥットガルト北部のウンターテュルクハイム(ドイツ語版)に建設し、レースカーの開発拠点もそちらに移った。
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